ロジャー・ドナルドソン監督「バンク・ジョブ」(★★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督ロジャー・ドナルドソン 出演 ジェイソン・ステイサム、サフロン・バロウズ

 銀行強盗のつもりが、王室のスキャンダルを映した写真を盗み出すために利用された愚かな男たち--のはずが、知ってしまった秘密、それを封じようとする組織、逆に同時に見つかった別のスキャンダルをあばこうとする組織を利用し、組織と組織を対立させ、銀行強盗の手配をくぐりぬけ、大金を手に入れ、自由も手に入れてしまう。いわば、ピカレクス映画。
 この映画をおもしろいものにしているのは、二転三転のストーリー展開よりも、実はイギリス独特のスピード。
 ハリウッド映画なら、もっとスピードが速い。特にアクションが速い。画面の切り替えが速い。組織の対立ももっと組織全体として描く。何が起きたのか、一瞬わからないくらいの速さで展開すると思う。しかし、イギリス映画は、実にゆっくりと見せる。ひとつひとつのシーンがゆっくりと進む。
 なぜか。
 イギリスは、ことばの国だからである。映画だから、映像で見せるのはもちろんだが、きちんとことばで見せる。ことばを見せる。ひとつひとつのシーンをことばで補足する。たとえば、サフロン・バロウズがMI-5の男と話している。それをジェイソン・ステイサムが見る。そのあとジェイソン・ステイサムきちんと「何をしていたんだ」と尋ねる。そして、サフロン・バロウズ「口説かれていた」としっかり嘘をつく。このきちんとした会話が、そのスピードが、実にゆったりしている。はっきりと、嘘と、嘘に気づいているということを観客に理解させる。
 さらには、銀行強盗のためのトンネルを掘っているときの、見張りとトンネル掘りの無線のやりとり。救急車が来て、パトカーが来て、一方で無線を傍受したひとが警察に通報してというようなことが、そのやりとりが、じれったいくらい正確に会話でやりとりされる。ことばにならないことは、存在しない、とでもいう感じだ。
 そして、この映画のミソは、実は、それである。つまり、ことばにならないことは存在しない--というのがこの映画の本質なのだ。
 ジェイソン・ステイサムは王室のスキャンダルを知る。同時に、国会議員のスキャンダルが絡み、さらに警官の汚職が絡み、というようなことも知る。そして、それらが絡み合ったために、まぬけなはずの男たちが、いくつ組織、何人もから狙われる超高級(?)悪党になっていく。そしてその超悪党がみごとに、すべての権力を手玉にとって成功をおさめる、大金を手に入れるというストーリーが展開するのだが、最終的に、ジェイソン・ステイサムがつかまらないのは、それが「ことば」にならなかったということなのだ。犯人は存在するが、犯人を指し示す固有名詞(名前)がニュースとして存在しないということ。それが、この映画を成立させている。いろいろなスキャンダルは絡み合っており、絡み合っているがゆえに、犯人たちはそれを利用して自分たちの存在を隠すことができたのだが(不在にする--つまり自由になることができなたのだが)、その絡み合いをことばに定着させることができるのは、実は犯人たちだけなのである。犯人たちが不在であるとき、それらのスキャンダルは(特に王室のスキャンダルは)、ことばとして存在しなかったことになる。(これはMI-5の狙い通りである。だからこそ、それと引き換えに、犯人たちは自由を手にしたのである。)多くの被害者は被害を届けない。つまり、ことばにしない。そうすることで、被害は存在しなかったことになる。こういうことばと現実の楮をを犯人たちは利用する。
 ことばとして存在しないものは、イギリスでは存在しないと見なされるのだ。

 そして、ここからとてもおもしろい国民性も浮かび上がってくる。ことばとして存在しない、というとき、そのことばは「本人のことば」なのである。銀行強盗で言えば、被害者が何を盗まれたと「ことば」で訴えない限り、そこには被害は存在しないことになる。逆に言えば、ある人が何をしようが、それについて本人が何も語らないとき、その行為は存在しなかったことになる。これは別の言い方をすれば、あらゆる個人の「秘密」をイギリス国民は尊重するということである。たとえば王室のスキャンダル。それはだれもが知っている。けれども、そのことを王室自身が語らなければ、それは存在しない、存在しなかったこととして受け入れる。つまり、追及の対象にはならない。追及の対象にしない。
 最初のジェイソン・ステイサムとサフロン・バロウズの会話にしても、それがたとえ嘘であったとしてもサフロン・バロウズが「男に口説かれていた」と言えば、そのときはそれを受け入れる。それ以上は追及はしない。サフロン・バロウズがきちんと彼女自身のことばで説明するまでは、すべては存在しないものとして受け入れる。逆に言えば、必ず、ことばとして彼女が語るまで待つ、ということである。このことばと現実との関係の追及が、そのスピードが独特なために、この映画はおもしろくなっているのである。
 これがアメリカならまったく違う。本人が語らなくても、他人が語れば充分なのである。むしろ、他人が語る、物証があるということの方が、本人が語るということより重要である。「もの」をつきつけて、誰かを追いつめていく。スキャンダルの追及は、そんなふうに展開する。(クリントンとモニカのスキャンダルはクリントンが語らなくても、公に存在してしまう。)
 誰にでも秘密はある。そして、個人個人が秘密を持っているということを受け入れるのがイギリスである。この映画で、犯人たちは大金を手に入れる。それを受け入れるのも、実は、イギリス人の性質である。単に悪漢が好きというのではない。悪漢だって秘密を持っているというだけのことなのである。凡人は持てない秘密を持っている。悪漢がそれを語らないなら、その秘密は、公のものではないから、存在しないのだ。犯人たちは、犯罪を犯したことにはならない。つまり、自由なのだ。
 プライベートとパブリックという概念がいつでも明確に存在するのがイギリスであり、それはことばとともに存在する。ことばがプライベートとパブリックを区別する。この映画で描かれている王室のスキャンダルも、それは王室が語ったことばではなく、他者(映画制作者)が語っていることなのだから、それは「パブリック」なものではない。パブリックではないから、王室は、苦虫をかみつぶしているかもしれないけれど、知らんぷりをする。知らんぷりができるのだ。

 あ、大人の世界だなあ、大人の映画だなあ、と思ってしまう。