女が三人、壺を持って、湧井戸のまわりに腰を下ろしている。
大きな赤い葉っぱが、髪にも肩にも降りかかっている。
鈴懸の樹の後ろに誰か隠れて石を投げた。壺が一つ壊れた。
水はこぼれない。水はそのままだった。
水面が輝いて我々の隠れているほうを見つめた。
*
この詩に書かれている情景は矛盾している。なぜ矛盾していることを書いたのかといえば、それは現実そのものの描写ではないからだ。現実に触発されて見た、一瞬の情景だからである。こころが見た情景である。だから矛盾していてもいいのだ。
女たちの気を引こうとして小石を投げる。それは手元がそれて壺にあたる。その音を聞いた瞬間、小石を投げた「我々」は、もう壺を見ていない。はっとして、身を隠す。隠れてしまうので肉眼は壺の様子がわからない。「壊れた」と思っても、壊れてはいない。「水はこぼれない。水はそのままだった。」--これは、一つの、見方である。
また、次のようにも読むことができる。こころは、次のような情景を見たとも考えることができる。
壺は壊れた。しかし、その瞬間、水はすぐにこぼれるのではなく、壺の形のまま直立している。壺の形のまま、丸みを帯びて垂直に立っている。いわば、壺という衣裳を脱いで、裸で立っている。その裸の水面、きらきらとした水面が、その不思議な力(垂直に立っていることができる力)で、「我々」を見ている。隠れているけれども、隠れることのできない「我々」をしっかり見ている。--水に、見られてしまった。隠れながら、「我々」はそう感じる。
このふたつの読み方。そして、私は、実は、後者の読み方をしたいのだ。
水はこぼれない。水はそのままだった。
水面が輝いて我々の隠れているほうを見つめた。
この水の、水自身で立っている美しい姿。それは「輝いて」としか表現できない。艶やかで、透明で、美しい輝き。その輝きが、私はとても好きだ。
その水は、一瞬、こころのなかで輝いた後、壺のように壊れるだろう。壊れて、女たちの足をぬらすかもしれない。けれども、その水が壊れる前の、一瞬の、水が水自身が剥き出しになったことに驚き、恥じらい、固まったようにして輝く--その一瞬が、その輝きが私はとても好きだ。
そんなものは現実にはありえない、とひとはいうかもしれない。けれど、そういう現実にはありえないものを、ことばは見ることができる。詩は、そうやって現実を超越する。矛盾を超越する。そして、矛盾を超越するところにこそ、思想は存在する。美はあらゆるものを超越して存在することができるという思想が、そこには存在する。
この詩は、とても好きな詩である。私の読み方が誤読だとしてもかまわない。私は、むしろ、ずーっと誤読しつづけていたい。