谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」は「現代詩手帖」の2008年のアンソロジーの中の1篇である。詩集『私』のなかの1篇。
とても不思議な作品である。
前半の3連。
初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を
MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない
そんなのは小説のやること
詩しか書けなくてほんとによかった
小説は真剣に悩んでいるらしい
女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか
それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか
それから際限のない物語が始まるんだ
こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの
やれやれ
詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないわけではないのだけれど
これはほんとうに詩の擁護なのかな? 小説が名ぜつならないかについて書いているのかな? 私には、まったくわからない。
私はもともと詩も小説も、たのことばで書かれた作品も区別して読んだことがない。すべて、そこに詩があるかどうかだけを楽しみに読んでいる。
最初の2行。これは「小説」への批判である--ということになるのかもしれないが、そこに書かれていることばは詩である。「MS明朝」という即物的なことばさえ、そこに即物的な手触りで存在するとき、それは詩である。小説を批判することば、つまらないという小説を批判することばのなかに詩がある。これって、矛盾じゃない? もし、谷川が小説を批判できないとしたら、詩はどこに存在することになる? 小説を批判するとき、詩のことばが存在しはじめるのだとしたら、詩は小説に依存していることになる。小説に依存しないと存在し得ないのに、それでも詩は小説よりもおもしろいと言えるのか。
バーナード・ショーのジョークを思い出してしまう。「女と男はどっちがばか?」「男です。女と結婚するのだから」。これは、ばかな女と結婚するほど、男はばかだという意味だが、では、ほんとうにばかはどっち? わからない。
どっちでもいいのだ。
小説が「女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか/それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか」真剣に悩むように、詩だって、こその2行を書くべきかどうか真剣に悩んでいるはずである。「やれやれ」である。
詩も小説も、そしてあらゆるジャンルのことばも、あらゆることを書くことができる。つまらないとも、おもしろいとも、書ける。それがほんとうにつまらないのか、おもいしろいのかは、書かれている内容ではない。意味ではない。
意味を追いかけると、矛盾にしかたどりつけない。これは小説も詩も同じである。
谷川が書いているのは「詩の擁護」という意味でもなければ、「何故小説はつまらないか」という意味でもない。
「初雪」と「メモ帳」と「白」という出合いである。「MS明朝」と「足跡」という出合いである。ことばは、谷川がそう書くまで、そんなふにうにして出合ったことはなかった。「無印のバッグ」と「グッチのバッグ」も、「悩み」ということばのなかで出合うということはなかった。
そして、そんなふうに新しく出合うことで、ことばはことばから「もの」へかえっていく。「もの」の手触りをつかんで、もういちど「もの」から私たち読者の方へやってくる。そのとき、ことばが、はじめてこの世界にあらわれたみたいに新しく感じられる。その瞬間に、詩が生まれる。
![]() | 私―谷川俊太郎詩集 谷川 俊太郎 思潮社 このアイテムの詳細を見る |