リッツォス「証言B(1966)」より(19)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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演技   リッツォス(中井久夫訳)

彼は見物の椅子の一ヤード上に赤い布を引いた。
彼等の苦悩を彼等のすぐ眼の前で演じて見せた。
ガラスの仕切りの向うにいる彼は裸のように見えた。
ヌードの女性を連れているみたいだった。
ナイフが五本置いてあった。ギラリと光るのが見えた。
テラコッタの像が浴槽の隅で壊れていた。
海の輝きのなかで彼は大きな漁網を引き揚げた。
毛むくじゃらの醜い怪物が入っていた。
彼はローソクを掲げて階段を上がった。
叫びながらトンネルを下った。
皿を一つ踏み潰した。
他の者たちは、なだめて、ほめて、さよならをした。
彼はかけらを集めて、一晩中、継ぎ合わせようとした。
ちょうど真中のかけらが一つだけなかった。
これでは夕食を食べる器が全然ない。第一、空腹ではないんだが。



 ある劇の1シーンを思い浮かべる。「彼」のひとり芝居である。「彼」はひとりで、たとえば漁師の様子を演じる。あるいは、何者かから逃げる男を演じる。それは、ギリシアの現実を知っているひとには、そのまま自分の姿に見えるかもしれない。
 私はリッツォスの生きた時代のギリシアを知っているわけではない。だから、ぼんやりと想像するだけなのだが……。

 最後の3行が複雑である。
 これは演技が終わったあとの男の孤独な姿を描写しているのか。それとも、その孤独な姿までもが演技なのか。両方にとれる。
 たぶん、両方を生きなければ、当時のギリシアを生き抜くことはできなかったのかもしれない。
 ここでも、リッツォスは何も説明しない。説明せずに、孤立した人間を、孤立したままに描いている。ことばは、その孤立した男といっしょに孤立する。
 このさびしさが、なぜか、私は好きである。