リッツォス「証言B(1966)」より(18)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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おおよそ   リッツォス(中井久夫訳)

彼は手に取る。ちぐはぐなものだ。石が一個。
壊れた屋根瓦。マッチのもえかす二本。
前の壁から抜いた錆びた釘。
窓から舞い込んだ木の葉。
水をやった植木鉢からの滴。
昨日、きみの髪に風が付けた藁しべ。
これらを持って裏庭に行き、
おおよそ家らしきものを建てる。
詩はこの「おおよそ」にある、分かるか?



 名詞の羅列。それをつかって「おおよそ家らしきものを建てる」。この「家」とは「彼」のことである。「彼」はそういもので「私」という存在をつくっている。
 名詞。数え上げられた存在。それは細部であると同時にすべてである。その存在を中心にして、遠心と求心が繰り返される。遠心と求心の反復であるから、そこには「一定の形」はない。往復運動があるだけである。そして、その往復運動というのは「距離」をもたない。「距離」はあるのだけれど、それは測定できない。そして、その測定できない「距離」が「おおよそ」である。

 私たちが(読者が)見るのは(読みとるのは)、いつでも精神の(あるいは感情の)運動である。それは「形」ではない。「おおよそ」の軌跡である。
 たしかに、詩は、そこにあるのだと思う。