野村喜和夫「螺旋の閾」のことばのゆらぎはすばやい。それに対して、海埜のことばはゆったりしている。いや、ゆっくりしている。というより、速度がない。速度がないというと変だけれど、移動しない。移動せずに、重なる。(深まる、というのとも少し違う。)
作品の書き出し。
むかしむかし、恋人のようなすあしをかかえ、わたしたちは宮殿をおりていった。まぎれもない述懐がころがり、べつのかたちをなぞるようにかなでている。ぬぐえそうなあがないです、あやまたないふとももです。いまだ歓喜のけはいがあるのは、ほうほう感覚もともにあるということなのか。
「むかしむかし」からしてことばのくりかえし、ことばの重ね、重なりなのだが、「なぞるようにかなでている。ぬぐえそうなあがないです、あやまたないふとももです。」というのは、ひとつの状況をことばを重ね合わせながらくりかえし言っているのだ。「宮殿」でのセックスの倦怠。倦怠の奥底にある愉悦の記憶。それは、ことばを重ね合わせるとき、互いのことばを剥がし合うようでもある。ことばが隠してしまうもの、それをことばで剥がそうとする。けれども、それがまた重なってしまう。--矛盾である。徒労である。その、どうしようもない感覚の存在が、ひらがなのなかで揺らいでいる。
「歓喜のけはい」「ほうこう感覚」。こうした漢字とひらがなの出会いが、ことばの重なり、出合いの奥に、書こうとして書けない感覚を閉じ込める。あるいは、隠す。隠すことで、そこに何かが存在すると明らかにする。ひらがなを漢字に衝突させることで、はじめて、そういうものが明らかになる。--どうしようもない感覚の存在が、ひらがなのなかで揺らいでいる、と書いたのは、そういう理由による。
この作品は、絵を見ての感想、あるいは絵を見ての感想という形をとった虚構なのだが、何かについて語るということは、何かを利用して(何かの手を借りて)、自分を、つまり、「いま」「ここ」を裸にするということでもある。
その種明かしのような、最後の行。
宮殿はのをこえ、やまをこえ、むかしむかし、いまをくらしたという。
「いま」が、そこに登場する。それはそれでいいのだろうけれど、というか、種明かしをしないと不安という気持ちはわかるけれど、種明かしがないまま、しりきれとんぼの「むかしばなし」でもよかったかもしれないなあ、とふと思った。「いま」を明確にしないと「現代詩」というものにならないとは、私は考えない。
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