扉のあたりを彼はしつこく観察していた。
正面の、窓のない赤い扉だった。
にもかかわらず、彼がかんどころを外しているのが分かった。
反対側の小さな丘の上に村から男が彼の馬に飼い葉をやりに来た。
男は麦藁の束をそっと地面の上に置いて、石の上に腰を掛け、
静かに馬の睾丸を眺めていた、少し悲しげに。
*
ことばで何かを描写したい。誰も書かなかったことを書きたい。詩人の欲望は(作家の欲望は)、いつの時代も同じだ。誰だって同じだ。
リッツォスがここで書きたいのは、
にもかかわらず、彼がかんどころを外しているのが分かった。
という行と、最後の
静かに馬の睾丸を眺めていた、少し悲しげに。
であろう。
「彼」と「男」が「かんどころを外す」と「静かに馬の睾丸を眺めていた」で奇妙に重なり合う。「大事なこと」から何かがずれている。しかし、そうやってずれたときにあらわれる何か--この詩では「少し悲しげ」という気分がそれになるが、それがくっきりとことばに定着する。「ずれ」を通してしか発見できない「真実」(大事なこと)があるのだ。
別の接近のしかたもしてみよう。
リッツォスのことばの不思議さは、ことばが「過去」を背負っていることである。たとえば、
にもかかわらず、彼がかんどころを外しているのが分かった。
この行の「かんどころ」は「過去」を持っている。「かんどころ」はいっさい説明されない。しかし、それが「過去」(つみかさねてきた実績)とずれているからこそ、かんどころと外れていることがわかるのだ。「かんどころ」に従って何かをする--そういう行為をしたことがある人間だけが、「過去」を共有できる。
同じように、最終行の
静かに馬の睾丸を眺めていた、少し悲しげに。
も、馬の睾丸を(あるいは他の動物のでもいいが)眺めた「過去」がある人間だけが、その「少し悲しげ」な「少し」を理解できる。共有できる。
ふたつの「過去」を共有できたとき、読者と「彼」と「男」が一体になる。
中井久夫の訳は、ことばの「過去」を不思議な形ですくい上げてくる。
「かんどころ」はギリシア語でどういうことばか知らないが、この肉体になじんだ日本語が、やはり肉体にぴったりよりそう睾丸と不思議に通い合う。男の肉体にそなわっている何か。--睾丸は「かんどころ」に従って動く。この感じを共有するには、やはり「過去」が必要だろうけれど、そういうものを中井久夫は不思議に、簡潔で、だれもが知っていて、実はあまり「文学」にはつかわないことばの中から探し出してくる。
それがとてもおもしろい。