読売新聞に掲載されている「参考人質疑の要旨」を読みながら、日本の政治家の国語力に疑問を感じた。国会議員が質問し、それに田母神が答える。そのあと、その発言に対して再質問をするという形をとっていないようなので(新聞の要旨からだけではよくわからない)、追及のしかたに限界があるのかもしれないが、もしそうなら、そういう限界を設けていること自体、討論に対するい認識力が低いということになるだろう。
浜田昌良(公明)の、「どういう意図で(懸賞論文を自衛隊幹部に)紹介したのか」という問いに、田母神は次のように答える。
日本の国は良い国だったという(歴史の)見直しがあってもいいという論文を募集しているから、勉強になると紹介した。今回びっくりしたのは、日本は良い国だったと言ったら解任された。ちょっと変だ。
一番の問題は、田母神が「日本が侵略戦争をしたかどうか」という問題を、「日本がよ良い国だったかどうか」ということばにすり替えていることだ。「良い国」の定義はあいまいである。「あいまい」な言語を利用して、田母神は自分の発言をごまかしている。日本が侵略戦争をしたというのが「濡れ衣」であると主張することと、日本が「良い国だった」と主張することはまったく別の論理である。田母神が主張するように、たとえ日本が誰かにだまされて結果的に中国に侵略してしまったのだとしても、だまされたから「よい国だった」ということにはならない。だまされるような「おろかな国」だったということにしかならない。「侵略」という事実は消えない。
問題になっていることが、日本が「良い国」だったかどうかではないという点を明確に指摘できないのは、田母神を追及する国会議員の論理力・国語力が極端に低下しているためである。
この問題のすり替えをだれも追及しないからこそ、井上哲史(共産)との質疑が次のようになってしまう。井上は「統幕学校の一般課程で、『国家観・歴史観』の科目創設を主導したか」と質問する。それに対し、田母神は答える。
はい。日本の国を良い国だと思わないと頑張る気にならない。悪い国だと言ったのでは自衛隊の士気もどんどん崩れる。きちっとした国家観や歴史観なりを持たせなければ国は守れないと思い、講座を設けた。
ここにも巧妙な論理のすり替えがある。田母神は日本は「良い国だった」と浜田に対して答えていた。「だった」とは過去形である。しかし、井上には「良い国だと思わないと」と現在形で答えている。
現在形はもちろん、歴史的事実を述べるときにもつかう。歴史的事実は現在形で語ってもいい。というか、現在形で語るのが普通である。この文法を利用して、田母神は論理をすり替えている。
日本が過去に侵略戦争という間違ったことをしたという過去の事実と、日本が現在、「良い国である」という現在の事実は別個のものである。過去に間違っていても、現在が正しい(良い)ということは、いくらでもある。過去の間違いを間違いと認めることは、現在が過去とは違って「良い」状態であるという証拠でもある。そして、自衛隊が守るべきものは、「過去」ではない。現在生きている日本人である。将来生きていく日本人である。国家である。守るのは現在と未来であって、過去ではない。「現在の良い国を、そして未来の良い国を守る」と言えば、自衛隊の士気は崩れるのか。そんなばかなことはない。逆だろう。現在の悪い国、将来悪くなっていく国を守らなければならない、と言ったときこそ自衛隊の士気は下がるだろう。だれだって望みのないことをしなければならないとなれば士気が崩れる。
国会議員でさえ、田母神の「良い国」論の問題点を指摘できない。国会は、田母神に利用されただけである。
こんな権論論理の低下してしまった国では、詩は存在し得ないかもしれない。詩は論理を超えるもの、超越するものだが、超越するものがなければ、超越しようがないからである。
政治的言語と文学的言語は別のものかもしれないが、別のものであるなら、それをどんなふうにたたき壊せるかを考えるのは楽しいことかもしれない。言語の破壊、再創造(再生)は詩の仕事だろう、と思う。