リッツォス「証言B(1966)」より(5)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

同じ夜   リッツォス(中井久夫訳)

スイッチをひねって自分の部屋に明かりを点けた。人目で分かった。
これが自分だと。自分専用の空間にいて、
涯のない夜と、その夜から伸びる枝から離れているのだ、と。
自分を確認しようと鏡の前に立った。だが
汚いヒモでクビから下がっているこの鍵束は一体何だ?



 リッツォスの孤独。それは私にはいつもなつかしく感じられる。それは、そこに描かれるものが質素だからかもしれない。多くの「もの」が登場しない。かぎられたものが、ひそかに手を伸ばしている。その感じが孤独を強く感じさせる。

涯のない夜と、その夜から伸びる枝から離れているのだ、と。

 この美しいイメージは、末尾の「、と」によって、いっそう強くなる。「、と」によって、そこに描かれているものが、いったん突き放され、離れたところから見つめているのだ、という感じを呼び起こす。
 これは、それに先だつ

これが自分だと。

 とは、ずいぶん違う。「これが自分だと」は一気に吐き出されたことばだ。「、と」は、そういう一気に吐き出された呼吸とは別のものである。吐き出して、そこでいったん立ち止まる。そして、つづける。そのとき、孤独は深くなる。
 なぜか。
 その読点「、」の呼吸のあいだに、何者かが入り込むからである。呼吸の一瞬の空白が、何者かを呼び寄せ、それが「自分」を遠くする。遠ざける。

汚いヒモでクビから下がっているこの鍵束は一体何だ?

 疑問が、「自分」さえも、「自分」から遠ざけてしまう。そのときの冷たい孤独。その、冷たい感じがとてもなつかしい。存在するのは、「もの」と「自分」。そして、そのあいだにさえもつながりがない。「もの」の非情さ、人間の感情とは無関係に存在してしまう力が、人間のいのちを「つめたい」ものにする。