戸を叩く音 リッツォス(中井久夫訳)
塩と陽と水がその家を少しづつかじって行く。
窓があって人がいたところが、ある日に濡れた石だけになる。
それに彫像が一つ。泥に顔がうつぶせに。
扉たちだけが海上を帆走する。 ぴんと張って、海慣れして、武骨。
時には日没など水上に光るのが見えるだろう。平らな扉。永久に閉ざされた扉。
漁夫たちはもう扉を見ない。
彼等は朝早く家の中でランプの前に座って
己の身体の裂け目に魚が滑る、その音を聴く。
漁夫たちは海が千の手で自分たちを叩くのを聴く(皆知らない手ばかりだ)。
それから寝床へ行き、眠る。貝殻と髪の毛がもつれあって。
突如、扉を叩く音がして漁夫たちは目覚める。
*
リッツォスの詩は(中井久夫の訳は)とても映像的である。1行1行くっきりと映像が見える。そしてその映像はとても簡潔なものである。けれども、その詩が簡単であるとはかぎらない。
塩と陽と水がその家を少しづつかじって行く。
これは漁夫の家の描写である。海辺なので飛沫がかかる。太陽も過酷に照らす。家は徐々に雨風に傷んでいく。--そういうことは誰でもが知っていることなので、ここに書かれていることがわかった気持ちになる。けれどもよく読むと「その家を」の「その」がわからない。この行の前に、「その」に相当するものが書かれていない。
ここではリッツォスは読者に「過去」を要求している。「過去」を想像するよう要求している。どの詩でも「過去」を要求する。たとえば、昨日読んだ「孤独な業」では、男がどこから馬を走らせてきたか、という「過去」を想像するよう要求している。男と馬がどんなぐあいに親密だったか、その「過去」を想像するよう要求している。リッツォス自信は、そのシーンの前にあるはずの時間、「過去」を説明しない。
「過去」はどうしても、読者の「過去」になる。リッツォスは、読者に自分自身の「過去」を反映させて詩を読め(ことばを読め)と要求しているのである。この要求にこたえるには「おとな」でなければならない。「こども」は「過去」の時間が少なすぎて、リッツォスの要求にはこたえられない。リッツォスの詩は、「おとな」のための、そして、同じ時代を経験してきたひとのための詩なのである。
リッツォスの詩をほんとうに理解するためには、リッツォスが生きたギリシアを知らなければならない。ほんとうのリッツォス論はそういうことを抜きにしては成り立たない。
私はギリシアの現代史を知らない。リッツォスがどういう時代を生き、その仲間たちはどうしていたのかを知らない。
だから私の感想は、あくまで、印象である。
この詩は1連で、切れ目なく書かれているが、視線はふたつに分かれる。(多くの詩が同じスタイルをとっているように見える。「夢遊病者ともう一人と」で少し書いたが、ふたつの視線が交錯する。)
前半。「漁夫たちはもう扉を見ない。」までは、嵐のあとの風景である。嵐が家を壊していった。残っているのは石だけ。倒れた彫像だけ。その家の「扉」は海の上を漂っている。それは家にあったときのように開かれることはない。海にはりついて(水面に張りついて)「永久に閉ざされ」ている。
そして、その扉の下、つまり、海中、海底が、その家の「部屋」なのだ。「家の中」なのである。ここからが後半である。岸から扉を眺めていた視線が、海中から水面を漂う扉を眺めるのである。そこには、嵐で遭難した漁夫がいるのだ。その壊れた家の漁夫にはかぎらない。これまでの嵐で遭難した漁夫たちが、その扉の下、深い深い海底にいる。そして、遠い「扉」を、帰るはずだった家を夢見ている。夢見ながら、生きていた「日常」をくりかえしている。同時に、死を受け入れようとしている。遭難して、死んで行く漁夫たちの思いが描かれているのだ。
傷ついた体の傷を魚がつっつく。海の水、海底の水は船に乗っていたときにはわからなかった感触がある。(皆知らない手、とはそういう意味だろう。)あきらめて、死んでいこうとする。寝床は、実は死の床である。髪の毛には貝殻が絡みつくだろう。
と、そのとき、突如、扉を叩く音。
遭難者をさがす漁夫仲間が、死にかけた男を見つけたのだ。「目覚め」は死からの回復である。
--それはほんとうにあったことか。それとも、そうあってほしいという夢なのか。
そんなことを考えながら、私はリッツォスを読む。