リッツォス「証言A(1963)」(9)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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一心に集中の時   リッツォス(中井久夫訳)

若い衆が浜で砂を移していた。荷馬車に荷を積んでいた。
陽は暑く、汗が滴った。正午を廻った時、皆、衣服を脱いだ。
自分の馬に乗って海に乗り入れた。
燃える陽と彼等の体毛と。金色と黒。
一人が体を撫でて掌が股に来た時叫び声を上げた。
他の連中が駆け寄った。担ぎ上げて、砂に寝かせた。
訳が分からない面持でぼうっと見ていた。
とうとう一人が敬虔に掌を動かした。
彼を囲む円陣を作って立つ皆は十字を切った。
馬は濡れて金色。鼻を鳴らした。馬たちの鼻面は遠く水平線の方角を指していた。



 この詩も最終行に深い余韻がある。
 前半の肉体労働、なかほどの海での解放。そして、事故。突然の死。--つらい労働から解放されて、若い肉体が、若さゆえに無軌道に動く。ほとんど無意識。ほとんど欲望のままに。
 馬の体に(と、私は読んだ)触る。人間(男でも、女でもいい)の体、その強い欲望がうごめく股に触れるように、馬の股に掌を伸ばす。驚いて、馬が若者をけり上げる。そして、唐突な死。
 この詩は、具体的には何も説明しない。「意味」を拒んで、ただ若者たちの動きを描写している。「心理」というものが、まったく説明されていない。ただ肉体の動きがそこにあるだけである。
 仲間が死んだということに対する「悲しみ」も描かれてはいない。「こころ」を描写しようとはしていない。
 この詩人の態度(若者たちの態度)と、馬がとてもよく響きあっている。
 馬は人間の「こころ」など気にしない。(馬は利口だから、ほんとうは気にしているのかもしれないが。)人間の心情とは無関係に、一個の自然になっている。非情な自然、そのものになっている。
 この非情さが、詩を清潔にしている。若者がおこなった無意味ないたずらが遠くへ遠ざけられ、ただそこに「死」がぽつんと浮かび上がる。人間の「こころ」に配慮しない馬は、人間の「死」にはもっと配慮しない。
 一方に金色に輝く「いのち」があり、他方に突然の「死」がある。それは隣り合わせになっている。無関係である。だから、清潔なのである。



樹をみつめて
中井 久夫
みすず書房

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