リッツォス「証言A(1963)」(8)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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夏   リッツォス(中井久夫訳)

彼は浜を端から端まで歩いた。太陽と若き曳航に輝いて。何度も海に跳び込んだ。その度に皮膚が濡れて光った。金色に。赫土(あかつち)の色に。すてきね、という囁きが後を追った。男からも女からも。何歩か後を村の少女が随いて歩いた。彼の服を捧げ持って、いつも少し離れて、一度も彼を見なかった。一心に尽くす自分を少し腹立たしく思いながらも幸福だった。ある日、二人はいさかいをして、彼は、もう服を持つなといった。彼女は服を砂に投げ、彼のサンダルを腋に挟んで走り去った。裸足の彼女が立てる小さな砂埃が陽のほてりの中に残った。



 最後の1文がとても印象に残る。余韻、というのは、こういう終わり方をさしていうのだろう。
 「陽のほてり」の「ほてり」がとても美しい。
 ギリシャ語で何というのか知らないが、このふくらみのある感じ、量感が、とにかくすばらしい。量感があるから、そこで起きたことをすべて受け止めることができる。
 それに先だつ「一心に尽くす自分を少し腹立たしく思いながらも幸福だった。」という矛盾したこころ--それも、「ほてり」と響きあっている。
 「ほてり」というのは、何かが「こもっている」感じがする。解放されない何かが、そのなかに残されている。そのために、熱を持っている。熱は、何かがぶつかりあうとき、こすれあうとき、そこに発生する。

 「ほてり」以外のことばでは、たぶん、この作品の余韻は違ったものになる。中井久夫の言語感覚のすばらしさがあらわれた訳だと思う。



最終講義―分裂病私見
中井 久夫
みすず書房

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