愛敬浩一「古管」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

愛敬浩一「古管」(「東国」139 、2008年09月30日発行)

 愛敬浩一「古管」は通勤のとき見た風景を描いている。その後半、

その運転手が
笛を吹いているのだ
まるで
田舎の神社の
神楽殿の上で横笛を吹いている人のような感じで
横笛を吹いているのだ
音は聞こえなかったが
いや、聞こえるはずもないのだが
私の耳の奥から
音は
やって来た
柔らかく幅のある中間音程が
高くもなく
低くもなく
私をどこへ連れて行ってくれるかのような
古管の音が
聞こえて来た

 すべての行が好き、というのではない。どちらかというと不満がたくさんある。それでも、この詩について書いてみたかった。1行、たまらなく好きな行がある。

やって来た

 「聞こえてきた」「響いてきた」ではなく「やって来た」。あ、いいなあ。遠くからくる感じがする。「遠い」といっても自分の肉体のなかだから「距離」的には遠くない。その遠くない距離を「遠く」と感じさせる何か。
 不思議な正直さが、ここにはある。
 正直さは、実は、それに先だつ行によって準備されている。

音は聞こえなかったが
いや、聞こえるはずもないのだが

 これは単なる事実の説明のようであって、そうではない。「慣用句」に溺れていく意識を、ぐいと押しとどめる。「いや、聞こえるはずもないのだが」としっかり事実を言う。そのまっとうさが愛敬の「慣用句」の感覚を洗い流す。そして、

やって来た

という行が動きだす。いいなあ。





夏が過ぎるまで―詩集
愛敬 浩一
砂子屋書房

このアイテムの詳細を見る