目を閉じて、あの夏のことを思えば、
思い出すのは彼の指輪からの金色の霧と暖かい感覚ばかり。
それに、柳の樹の後ろにちらりと見えた
若い農夫の裸の陽に灼けた広い背中からも。
午後二時だった。
彼が海から戻る途中。あたり一面、焦げた草の匂いがしていた。
同じ時、ボートから笛が聞こえた。また蝉も鳴いていた。
彫像が出来たのは、むろん、ずっと後のこと。
*
書かないことの不思議さ。書かないことによって浮かび上がってくる詩。「彫像」とはなんの、だれの、彫像か。ここでは具体的には何も書いていない。
私には「彼」の彫像のように思える。恋人の彫像である。夫、かもしれない。「指輪」ということばがあるから。--指輪の至福、それは、あの夏のことだった。
彼との至福のはじまりの一瞬。しかし、女は(この詩の主人公は女である、と私は思う)、彼ではなく、ほかの男の裸を見ている。背中のたくましさを見ている。それを見ながら、しかし、純粋に農夫の背中をみているのではなく、いま、そこでは隠されている彼の裸もみている。--結婚式の、その、奇妙な色っぽさ。
リッツォスは、こういう情景を、やはり「こころ」を描写せずに、視線が見たものを「カメラ」のように感情を排除しながら提出する。書かれていないから、「主人公」のこころではなく、読者の(つまり、私の)こころが、書かれていないこころそのものとして動く。私が感じたものが、「主人公」のここころになるのだ。
普通はていねいに描写された心理が、読者のこころのなかに入り込み、読者のこころをかたちづくる。
リッツオォスは逆なのだ。描写しない。そこに描写がないから、読者は自分の思いをそのなかに投げ入れ、読者自身の力で登場人物に重なる、登場人物を乗っ取ることになる。登場人物は何も見ない。読者が登場人物の変わりに、心情で染った情景を見るのである。
途中の、「午後二時だった。」という、すべてを切って捨てたような断定が、とても美しい。きのう読んだ「正午」の「構うものか。」と同じように、それは視点が方向転換する時の起点になっている。
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