斎藤健一「生物」は文体が非常に気持ちがいい。短いことばが積み重なり、積み重なったところで、その短いことばのなかに存在したいのちが、ぐい、と動く。そして世界を異質なものにする。そのリズムがいい。
全行。
月がのぼる。まるい海である。光。北北西。あかるくかがやく闇。テトラポッド。鰤はぴちぴち跳ねる。大きく口をあき潮くさい息を吐き出す。西洋の袖ボタンに似た石が捨てられている。さかさまに彼らはよこたわる。両眼は幕を張りぬれるのだ。暗い水。浪。泡。荒れ痛む皮膚の色だ。
世界をゆさぶり動かす起点としての「大きく口をあき潮くさい息を吐き出す。」この一文の強さ。「潮くさい息」。そのなまなましさ。鰤と人間が重なり合う。いのちが重なり合う。
「両眼は幕を張りぬれるのだ。」の「のだ」がいい。断定がいい。「ぬれる」で終わっても「意味」はかわらない。しかし「のだ」があのるとないのでは、いのちのかかわりかたが違う。ぐい、と接近し、一体になる。
とても印象に残る。
*
みえのふみあき「西海にて」。「Occurrence18」。みえのは、斎藤のように対象の内部へは入っていかない。
ぼくが休む空虚はどこにもない
樹には樹の充実がある
真鍮は真鍮の
おまえはおまえの
実態に満たされている
ぼくは駆け足で遁走する
歩道橋の階段を踏みはずして
郵便局の金庫の扉を通過する
素粒子のように
みえのは「通過する」。しかも「素粒子のように」。
こうした視線の悲しみが休める「空虚」はたしかにないかもしれない。あるのは、ただ、ことばだけである。悲しみを通過させてくれることば。悲しみは通過してどこかへ行ってしまう。ことばだけが残される。それを見る悲しみ。この運動は循環する。けっして終わることがない。終わることができない。
少女キキ―詩集 (1963年) みえの ふみあき 思潮社 このアイテムの詳細を見る |