井坂洋子『続・井坂洋子詩集』(2) | 詩はどこにあるか

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井坂洋子『続・井坂洋子詩集』(2)(思潮社、2008年09月23日発行)

 「覚えていた」「覚えている」ということばと同じくらい強烈に響いてくることばが、井坂洋子の詩にはある。「物語」である。
 「はるの雪」では次のようにつかわれている。

空が割れて
雪が降ってくる
破天荒な空模様である
小さなこどもの手を取り
物語の奥へと誘う
<ぼくはどこに行くの>
答えられないひとつめの質問
わたしたちが虫ならば
天地はお前の庭まで
わたしたちが人間ならば
天地は夕暮れの鉄橋まで
こどもは
ひとつ胴震いして
目を大きく見開く

<ママはどこに行くの>
答えられないふたつめの質問
時間の流れを
順を追って思いだし
思いだすことにぶらさがっている
他にはなにも考えたくない
物語のはずれの
青い影の角で待ち合わせても
だれもこなかった

 「物語」といっても、ここではどんな「物語」もわたしたちは読み取ることはできない。ただ「物語」としか書かれていない。
 ただし、ていねいに読んでいけば、「物語」の定義は導き出すことができる。
 「物語」とは人間の行動を決定する何かである。
 たとえば「物語」のなかで「わたしたちが虫ならば/天地はお前の庭まで」までの範囲であり、そこへ行くことができる。「物語」のなかで「わたしたちが人ならば/天地は夕暮れの鉄橋」までの範囲であり、そこへ行くことができる。
 「物語」は別のことばでも定義し直されている。
 「時間の流れを/順を追って思いだし/思いだすことにぶらさがっている」。「物語」のなかには時間がある。時間の流れがある。時間には順序がある。そしてそれは「思いだす」ということと関係がある。「思いだす」ということは「覚えている」ということと関係がある。ひとは「覚えている」こと以外を「思いだす」ことはできない。
 言い換えると。
 「覚えている」とこは「時間」を含み、その時間には順序があり、それが順番に再現されると「物語」になるということだ。そして、そういうきちんとした時間の流れのあるところでは、人間は「虫」になって時間を再現することもできれば、「ひと」となって時間を再現することもできる。もちろん、そのとき「虫」となるか「ひと」となるかで、「物語」の様相は変化する。「物語」はそういう変化を受け入れる。あるいは、うながす。そういうものである。

 井坂は、そういう「構造」をはっきりと見ている。「物語」をきちんと体験してきている。(きのうの「日記」で、井坂の精神の男根はそういう世界をくぐり抜けてきたと乱暴に書いたが、これは私が私の「物語」を井坂にあてはめてみただけで、ほんとうはもっと別の適切なことばがあるだろうと思う。)「物語」をきちんと体験してきて、そこから逸脱する。脱出する。そういうときに、詩は、突然あらわれる。
 たとえば。

物語のはずれの
青い影の角で待ち合わせても
だれもこなかった

 「青い影の角」。何であるか、見当もつかない。しかし、「青い影の角」は何であるかということを拒絶して、ただほんとうに「青い影の角」としてくっきり見えてくる。それが「物語のはずれ」というわけのわからない場所であればあるほど、抽象画のように、あざやかに見えてくる。
 これは「物語」を拒絶するだけではなく、「物語」そのものを破壊する。「覚えている」こと、「思いだす」ことのすべてを破壊し、そこから何かをはじめてしまう。そういう出発点である。
 それは別のことばで言えば、「物語」の「時間」の順序では捉えきれなかったもの、「思いだす」ことのできなかったもの、「覚えている」と自覚できなかったもの、「物語」のさらに時間をさかのぼった「過去」なのである。無意識という「過去」なのである。そういうものが「物語」を突き破って、その構造をたたき壊して、ぱっと、何の予告もなくあらわれる。
 さらに別のことばで言えば。
「物語」から「乖離」し、きっちりとした「距離」をあきらかにする。ことばを「物語」から完全に解放する。自由にする。
 それが、詩である。井坂の詩である。

 「物語」の時間を突き破ってあらわれる「過去」。自由になる「過去」。「過去」という無意識--と書きながら、ふと思うのは「劇」である。
 芝居というのは役者の肉体を必要としている。そして役者の肉体が背負っているのは、「過去」である。芝居の「物語」に書かれていること以前の「過去」。そういうものを差し出しながら、ことばを活性化させ、未来へ動かしていくのが芝居である。芝居は小説と違ってただひたすら「時間」が前へ進む。実は「過去」はこれこれでした、と小説のときのように挿入するわけにはいかない。常に「いま」として動きながら、その動きに「過去」を感じさせなければならない。役者の肉体はそういう責任を背負っている。役者の肉体から脚本に描かれていない「過去」が感じられるとき、つまり脚本そのものを破壊して動きだす何かが感じられるとき、芝居はおもしろくなる。強靱な肉体、特権的な肉体が芝居をおもしろくするのである。
 井坂のことばには、そういう「劇」をつくりだす「肉体」がある。「物語」から常に逸脱し、逸脱することで時間を活性化させる「肉体」がある。特権的な「肉体」がある。

 「青い影の角」は、透明で、近づきやすい「肉体」である。
 井坂の「肉体」は、かならずしもそういう近づきやすいだけの「肉体」ではない。そして、それこそがほんとうの魅力なのだが、わたしのことばでは、そこまではたどりきれない。ただ、そういうものを感じながら、私は井坂の詩を読んでいる。




井坂洋子詩集 続 (2) (現代詩文庫 第 1期189)
井坂 洋子
思潮社

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