1から11までがとてもおもしろい。「津軽のふるさと」が聞きたくて買ったのだが、ほかもとてもおもしろい。
「津軽のふるさと」の切ない切ない透明な感じは、いったいどこからくるのだろうか。まるで少女合唱団のソロのような透明さと、ふるさとを遠く離れたひとの、晩年(少なくとも中年以降)の切なさが同居している。そこに歌われている春の日、日本海の青は目の前にない。目の前にない過去を「現在」として呼び出す悲しみ。ひばりがこの曲を歌っているのをテレビでみたことが一度だけあるが、年をとってからの歌よりも、最初の録音、モノラルのこの少女の不思議な声が、ほんとうに不思議である。
「お祭りマンボ」「車屋さん」もとても好きな曲だ。「お祭りマンボ」は陽気なのか、悲しいのかよくわからないが、人間の暮らしというのはそんなふうにして陽気と悲しみがとなりあわせにくっついているものである。「車屋さん」はジャズと都々逸の同居がなんといっても楽しい。こんなむちゃくちゃな(?)曲をよくつくるものだと思うけれど、それをとても自然に同居させてしまうひばりの声の不思議さ。
ひばりの声には、何かいつでも矛盾したものがある。ひとつの色に染まっていない。
「津軽のふるさと」は少女なのに、年増女(という表現が適切であるかどうかわからないが、ようするに人生経験が豊かな女性)の切なさが同居している。普通なら、まったく別な次元のものがいっしょに存在している。その矛盾が、津軽の風景を、いまはそこにないにもかかわらず、かつてあったままの美しさと、それに手が届かない切なさで浮かび上がらせる。
「悲しき口笛」の不思議な倦怠感と、「越後獅子の唄」の、まるで他人を疑うことを知らない純真さ、その声の差異にも驚く。「悲しき口笛」と「港町十三番地」は、私には似通ったものに感じられるけれど、やはり声が声の質のちがいに驚く。「港町十三番地」には一種の余裕というか、諦めがある。
こんなに不思議な、いろいろな声はどこから出てくるのか。
と、書いた瞬間、ひばりの声はどこからか出てくのではなく、「出している」のだと気がついた。
「声を出す」とは普通のことである。誰でもが「声を出す」。歌うときは、誰だった「声を出す」。出さないと歌にならない。--というのは、あたりまえのことであるけれど、ほんとうはあたりまえのことではない。普通は声を出しているのではない。普通は、単に声がでているのだ。声がでるに任せて歌っている。曲の旋律、リズムにあわせて声がでる。声は歌詞をたどっている。
ひばりはそうではなく、声を出す。声を出すことで、その声のなかに感情を作り上げる。こころのなかにあって、まだ明確にならない感情。ひとは悲しいときさえ、その悲しみがどんなに悲しいかをはっきりとは自覚できない。ひばりは、そのはっきり自覚できない感情を声のなかに引き上げる。だから、複数の感情が声のなかにあるのだ。感情に流されるまま声を出していたら(つまりは、感情によって声が「出されてしまって」いたら)、声は単調になってしまうかもしれない。その単調さを乗り越えるために、ひばりは声のなかに複数の感情をつめこむ。
ひばりの声は「わざと」出した声なのである。そして「わざと」のなかに、どんなときでも芸術が、つまり詩がある。
後半のひばりは、いわゆる演歌ばかり歌っていたが、とても残念だ。ひばりはジャズやシャンソンも歌っている。ジャズは一度日記に感想を書いた。どれもおもしろい。ひばりは何でも歌える。それが、たぶんおもしろくて、作曲家も「これは歌えるかな? これならどうだ?」と挑むような形で曲をつくったのかもしれない。「車屋さん」のように、ジャズと都々逸の同居(これが、なんと、「津軽のふるさと」の米山正夫の曲である)など、ひばりがいなかったら誰も書こうとはしなかったのではないだろうか。ひばりも、そんな曲が好きだったのではないだろうか。(と、私はかってに思う。)後半が演歌にしばられているようで、なんだか寂しい。
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