伊達風人「水錘」 | 詩はどこにあるか

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 伊達風人「水錘」(「kader0d 」2、2008年05月10日発行)
 ことばがとても美しい。特に、2連目が。

   静寂の頂きのかたわらで
     果てることのない耳殻は
音もなく 自らの輪郭を奏でている
   線という線をひきつれて

 ここには「矛盾」がある。そして、その「矛盾」が美をつくっている。「静寂」と「音もなく」は同義語だが「奏でている」は「矛盾」である。「奏でている」というとき、音は存在する。「静寂」のかたわらに「音」が存在するとき、「静寂」は「静寂」ではいられない。
 しかし、たとえば私たちは知っている。

閑かさや岩にしみいる蝉の声

 この芭蕉の俳句は「閑かさ」と「蝉の声」を同時に存在させている。これは「矛盾」であるが、「矛盾」とは互いを強調する言語表現であって、ほんとうの矛盾ではない。その強調が、さらに「岩にしみいる」によって激烈になっている。「岩」には何も「しみいる」ことはない。その「岩」に「しみいる」のが「閑かさ」を破る「蝉の声」か、あるいは逆に「蝉の声」によって存在が明るみに出た「閑かさ」であるか--これは読者によって受け止め方が違うだろう。どちらをとっても同じであろう。「閑かさ」と「蝉の声」は同等の存在として、互いに、一期一会の出会いをしている。
 この芭蕉の俳句の「音」をめぐる構造が、この作品でも繰り返されている。

 伊達のことばの美しさには「既視感」がある。それは、いま、芭蕉の句を例に引いたが、ことばの動きが「伝統」を踏まえている、という美しさである。「伝統」によって鍛えられた美しさを持っているということである。
 これは現在では貴重なことばの運動だと思う。

 「耳殻」「輪郭」「線」ということばの動きも、とても美しい。無理がない。視覚の動きを誘いつづけることばに、まったく無理がない。
 ここに「現代」があるかと問われたら、少し答えに困るけれど、私はこういうことばの動きが実はとても好きである。安心する。あ、私は保守的な人間だなあ、と思いながらも、やはりこういう配慮の行き届いたことばは美しいなあ、とほっと息がつける思いがする。