広田修は同じ号に「笹野裕子『今年の夏』をめぐって」という論を書いている。そのなかで広田が言及しているのは「主体と客体の入れ替わり」という問題である。私が笹野から感じるのは「主体と客体の入れ替わり」ではなく、「主体と客体の融合」である。ただし、笹野の論については、ここでは触れない。触れないにもかかわらず、ここで取り上げたのは、その「主体と客体の入れ替わり」というテーマが、そのまま「眼」にあてはまるからである。
私は眼を鑑賞する////壁の空いたところに三十万円で購入した生きた眼を植えつけたのだ////まばたきすることによって眼は私から知識を食べていく/そのときの私の軽い疲れも顫動をも眼は知識として食べる//眼はまばたきの強さの微妙な違いを色相としてまぶたの裏に知覚する/まぶたの裏は力の海だからだ///私は眼のまばたきのリズムを楽しむ/音のない楽器だ//私はまばたきの速度には三段階あることに気づいた/速い順に管楽速・弦楽速・打楽速と名づけた
「眼」は「知識」を食べるというが、その「知識」について広田は具体的に説明していない。ことば、ことばに含まれるものがすべて知識だから、いちいち言及する必要がないということだろう。知識=ことばという関係が成り立つなら(成り立たせないと、この作品は成立しないのだが)、「眼」が食べているのは「私」のことばであり、そのことばは「私は眼を鑑賞する」からすでに始まっている。「まばたきすることによって眼は私から知識を食べていく」というのも「ことば」であり、その「ことば」の全部を「眼」は食べる。ここでは、「眼」が書かれているのか、それとも「私」のことばが書かれているのか、つまり「眼」が食べてしまった「ことば」が書かれているのか、区別がない。区別せずに、広田は「眼」と「私」を入れ換えている。「主体」「客体」の区別はなく、「主体」と「客体」があるという「知識」があるだけである。そして、その、存在には「主体」と「客体」があるという「知識」が、「主体・客体の入れ替え」を可能にしている。また「主体・客体の入れ替えが可能」という「知識」が、主体・客体の融合を妨げている。
夜の瞳は表面に細かい月の根をはやしている/(略)/眠っている私の眼からも月の根がびっしりと生え出してくる/////
作品の最後で、「眼」(厳密には、「眼」は「瞳」に変化している)と「私の眼」が同じ状態になる。この同じ状態になることを、広田は「主体・客体の入れ替え」と感じているのかもしれない。笹野なら「主体・客体の融合」として書く部分を広田は、あくまで「入れ替え」として書く。そんなふうに書くことが、たぶん広田にとって「論理的」なのだろう。
広田の作品のおもしろさも、つまらなさも、この「論理的」という「枠」のなかにある。あるいは、あくまで「主体」「客体」の区別を維持しようとするところにある。
人間のほんとうのおもしろさは「主体」「客体」の区別がつかなくなり、錯覚のなかで(錯覚を通路にして)、私が私以外の人間になってしまう。ときには動物や草花、無機質な鉱物にも、風や水にもなってしまう。その瞬間に、詩は輝くのだが、広田はそういうものを目指していない。
「論理」にこだわるのである。
「論理」のはてに何があるか。
私は意味のだらしなさにうんざりして部屋を出る
魅力的な1行である。美しい、とても美しいことばである。論理の果てには「意味のだらしなさ」が残るのである。それ以外は残らない。
ただ、このことを広田は実感して書いているのが、誰かのことばに触発されて実感のないままになぞっているのか、よくわからない。
ほんとうに「意味のだらしなさ」を感じているのだとしたら、詩の最後の「眠っている私の眼からも月の根がびっしり生え出してくる」と、「意味」を重ねることで「眼」と「私」を「おなじもの」に「なる」という「だらしなさ」を具体的に表現しているのならいいのだけれど。よくわからない。「意味のだらしなさ」の実感というよりは、逆に、「意味の生成する力」として書いているように感じられる。
笹野は「哲学」をはじめないところから「ことば」をはじめ、「哲学」になっている。広田は「哲学」をはじめるところから「ことば」をはじめ、「哲学」に拒否され、「論理」にぶら下がっている。「意味」にぶら下がっている--私には、そんなふうに感じられる。
「意味のだらしなさ」に対してどう向き合うのか、まだ結論を出していないように思える。その結論を詩のなかで探しはじめるとおもしろいと思うけれど、広田は違う場所で探しているようにも感じられる。「主体」「客体」の厳密な区別が広田を支配しているが、たぶん同じような構造、「哲学」と「詩」の区別がどこかにあって、そのふたつの「入れ替わり」を広田は楽しんでいるように感じられる。
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広田は「3ページ」という作品も書いている。書いているといっても、空白が3ページ用意されているだけで、ことば、文字は存在しない。
これは単純に、広田が「作者」であることをやめ、「読者」との「入れ替わり」を要求しているという「構造」を提出して見せたものである。「空白」。それを見ながら、どんなことばが読者の中に沸き上がるか。そのわきあがったことばそのものが「詩」である。それを広田は「読み」、「読んだまま」を提出している。「詩」はことばのなかにあるのではなく、ことばを読んだものの中にあり、「空白」にさそわれて動きはじめることばすべてが「詩」である。
広田がやろうとしていることはよくわかるが、それではほんとうに「意味のだらしなさ」しか、そこには存在しない。
もしかすると、広田は「意味はだらしない」ということを、世間のひとはみんな知っているということを知らないのかもしれない、と思った。