白鳥信也「朝、走る」 | 詩はどこにあるか

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 白鳥信也「朝、走る」(「モーアシビ」10、2007年07月20日発行)
 朝の通勤ラッシュを描いている。いつも出会う男がいる。その男への悪意。

狐目のサラリーマン、またこいつだ

 1行で書かれた呼吸がいい。「狐目のサラリーマンまたこいつだ」と読点がない方がいいかなあ、と思う。読点がない方が、思考(感情)というより、「生理反応」(肉体感覚)が強くなると思う。読点があるために、反応がちょっとにぶくなる。「悪意」が薄れる。つまり……。

狐目が乗り込もうとするけれど
場所をゆずらない
先住民の無言の抵抗
二秒ほどで狐目はあきらめて俺を回り込む
小さな目標達成 職場でもこうありたいこうありたいが
狐目の狐耳の後ろに白髪がはえている
髪の毛全体を栗色まじりで染めている
それだけじゃないな
朝から髪の毛を数百回叩いて刺激を加えているまばら狐頭だ

 悪意に同情がまじる。
 こうなると、ちょっと(かなり?)つまらなくなる。「小さな目標達成 職場でもこうありたいこうありたいが」の呼吸が追い打ちをかける。
 「狐目のサラリーマン、またこいつだ」という読点のある呼吸が、ここではもうひとつ深呼吸するように「こうありたいこうありたいが」と胸の底へおりていく。こうなると人間の悪意というのは輝かなくなる。「生理反応」(肉体の反射的反応)ではなく、意識(?)というものが生まれる。(パニックに陥ったとき深呼吸をして肉体そのものをととのえ、肉体の落ち着きから精神を落ち着かせるのと幾分似ている。)
 白鳥は善良なサラリーマン(?)で、この深呼吸こそが白鳥の人間性を表わしているのだろうけれど、それではおもしろくない。詩は、ある意味では詩人の人間性など必要としていない。人間性を超えるもの、ここにないもの、ここにはないけれど、ほんとうは出現させてみたいものを求めている。たとえば通勤ラッシュで思わず抱く悪意の生々しさを。そして、そのことばのなかに自分自身の悪意を投げ捨てたい、放り込みたいと願うのが読者なのだ。

場所を譲ってやればよかった

 「悪意」からどんどん遠ざかって、白鳥の「苦労」「疲労」だけが漂いはじめる。「反省」ほど「悪意」から遠いもの、肉体の反射神経から遠いものはない。

見つけた
何が
希望と絶望がくっついているのが

 ランボーをもじってみても、なんだかやりきれない。
 「悪意」→「反省」→「抒情」というのでは、「善良」なサラリーマンの、「敗北主義」の「かなしみ」しか浮かび上がらない。

 白鳥のことばは「悪意」とは遠いところにこそ本質があるとわかって、まあ、人間性にふれることができてよかったといえばいえるのかもしれないけれど、詩を読んで楽しかった、という具合にはならない。
 「悪意」の呼吸ができない人間は、「悪意」を書くのは避けた方がいい。「悪意」の変質(善意への変化?)なんて、道徳の教科書みたいだ。