いくつかの文体が混じっている。1連目、2連目、3連目で文体が違っている。
鉄棒で逆上がりをしようとして何度も失敗し
果敢にまたチャレンジする子供たち-
そんな幽霊がいたっていいじゃんか
てゆーか、実際いるし
丁度通りがかった小さな公園にぽつんと鉄棒が置いてあった
鉄棒だけで他の遊具が全然ない
滑り台やら何やらもあったが取り払われて鉄棒だけが残ってる
それもいつかは撤去されて多分公園自体もなくなるんだろう
公園のまぢかな死
そう考えるとちょっと不気味だなー
なんて思ってたら
2連目の文体がつまらない。4連目も同じ文体で書かれている。描写をきちんとしようとしたために文体が変わったのだと思う。その部分をもっと違った文体、1連目の4行目の文体で書くことができたらこの作品は傑作になったと思う。「公園のまぢかな死」ということば、「死」の強烈さが生きてきたのではないか。「てゆーか、実際いるし」という文体と地続きの「死」が生々しく浮かび上がったのではないかと思う。
着てる服の野暮ったさから見て
こいつらがここにいたのは70年代の初めくらいだろう
もうさっさと大人になって
今は会社員とか母親とか父親とかの役目を忙しくこなしてるに違いない
あっ、もしかしたらぼくより年上かもしれない
だけど、あッちゃー
蘇らせちゃったんだよな
君たちを立派な幽霊として
「着てる服の野暮ったさから見て/こいつらがここにいたのは70年代の初めくらいだろう」の一筆書きのような批判がいいなあ。「もうさっさと大人になって」という痛烈な批判がいいなあ。そういうすばやい精神の動きと、「だけど、」からはじまる3行の軽やかさ。これは一体のものだね。
そして、そういう一続きの精神の動きのスピードがあってこそ、
ぼくは心配する
鉄棒が撤去されたらお前たち、どうするの?
公園がなくなったらお前たち、どうするの?
が自然に輝いてくる。
「お前たち、どうするの?」はそっくり辻にかえってくる。
鉄棒がなくなったら、公園がなくなったら、公園の鉄棒で逆上がりの練習をしたという辻の「思い出」はどうなってしまうんだろう。
気になるよなあ。
それはたぶん鉄棒や公園がなくなることの、一番の重大事なのである。逆上がりできないこどもが増えることよりも、逆上がりの練習をしたという「思い出」をもてなくなるこどもが増える--そのことが人間にとって重大事なのである。
そういう重大事を、「てゆーか、」というようなかるーい、かるーい文体で語れるところが辻の文体の強さである。
この文体を徹底して、2連目、4連目も書くことができれば、辻は文体を確立したと言えると思う。そこまで文体を鍛え上げてほしいと思った。