入沢康夫と「誤読」(メモ52) | 詩はどこにあるか

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 入沢康夫『詩の構造についての覚書』(思潮社、2002年10月20日発行、増補改訂新版)。
 入沢は、ことばを「作者」(発話者)と「読者」の両側から見ている。

 言葉というものは--ここで言葉というのは、一個もしくは一個以上の単語の連なりを指すが--いかなる言葉でも、それが発せられる(口から、あるいは文字として)ときには、発話者との《関係において》発せられているのであり、それが受けとられる(耳で、あるいは目で、そして結局は脳で)ときには、受け取り手との《関係において》受けとられているのだ。あたりまえのことではないか? そう、あたりまえのことである。だが、このあたりまえのことに、いましばらくかかずらわっておかねばならないとぼくは思う。

 ことばには「発話者」の「関係」が含まれる。しかし、「読者」はそのことばを「発話者」の関係のみでとらえるのではない。「読者」自身との関係でとらえなおす。
 ここに「ずれ」が生じる。
 この「ずれ」を「誤読」と言ってしまうと簡単である。ただし、その「誤読」をどう評価するか。「誤読」だから間違っている、というのが一般的な考え方のようである。入沢は簡単にはそうした考えには傾いていない。
 「誤読」というとき、何を「誤読」したことになるのだろうか。発話者の意図? 発話者の感情?
 発話者の意図を「誤読」することが「誤読」とはかぎらない場合がある。

 「詩」から少し(かなり?)離れる。きょう07月09日の朝日新聞におもしろい記事が載っている。赤城農相の事務所費をめぐって野党と論戦したときのものである。赤城農相は彼の両親の家に事務所をかまえ、架空の経費を計上したという疑惑をもたれている。

 「光熱費は月に 800円ですよ。 800円で辞任を要求するんですか」

 安部首相は、そう弁護している。これに対して、朝日新聞の記者は「事実」をあげて批判している。

 首相は用意した紙に目を落としながら、野党党首たちに反論した。「月 800円」は過去10年で最小の光熱費だった05年の年9660円を月割りしたもの。最多の99年なら、年約 132万円になる。

 首相は赤城農相の「意図」を正確に読み取り「月 800円」という数字で野党に反論したもの。その論理を逆手にとって、朝日新聞は、では99年の場合は? と紙上で質問している。
 --しかし、こんな反論でいいのだろうか? 朝日新聞の反論の仕方にしたがえば、99年は正確であり、05年は間違っているということになるが、こういう反論の仕方では、たぶん「事務所の活動状態が年によって違っているから差が出て当然」という赤城農相(安部首相)の「意図」にそった結論が導き出されてしまう。発話者と「ことば」との「関係」に飲み込まれてしまう。これでは「反論」にならない。
 光熱費が月に 800円? そんなことがありうるのか。電灯をつけようがつけまいが、月々の基本料金というものがあるはずである。 800円しかかからないということ自体、その「事務所」が架空のものであった証拠だろう。「ことば」を発話者の関係する「状況」を点検するようにして探らなければほんとうのことはわからない。
 首相の弁護は意図的な「誤読」である。赤城農相の「意図」にそった、意図的なものである。
 現実の日常、電気代を月々いくら払うか、払っているかという「庶民」の日常、そこで動いていることば、月々たとえば 1万5000円払っていることとの差から月 800円という「状況」を洗い直す--そこから浮かび上がる事実をつきつける、という反論でなければ、ほんとうの反論にはならないだろう。

 「誤読」されることを狙って発言されることばもある。「月 800円」は「誤読」を誘導する「論理的」な読み方である。

 「月 800円で辞任要求」するのではない。「月 800円だから」辞任要求するのである。嘘をついているから辞任要求するのである。



 文学(詩)においても、こういう「誤読」を誘うことばはある。特に入沢の作品には、そういうものがある。「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」がそうしたものだと思う。あたかも「エスキス」以前に、いくつかの草稿があったかのように装った作品群。それ以前に草稿があったと「誤読」させる構造。
 --文学は政治のことばではないから、こういうことは罪にはならない。「誤読」に誘導されるのも楽しい。「誤読」に誘導されずに、そこからほかの読み方を探すのも楽しい。
 作者に作者とことばの関係があるなら、読者には読者とことばの関係がある。読者自身の関係を大切にして、作者の意図とは違った方向へ遊んでみる。そこに思いもかけなかったもの--読者自身の「本心」というものが立ち上がってくるときがある。そのとき、読者は作者の「意図」を「誤読」したのだけれど、同時に読者自身の「意図」を発見し、読者にとっての真実に近づく。そういうことがある。
 入沢は、そういう「誤読」を願っている。
 入沢自身のことばのなかに、誰かほかの人が書いたことばが紛れ込んでいる部分を読むと、強くそう感じる。
 「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」。それは宮沢賢治を「誤読」し、「誤読」のなかで語りたい入沢の本心をあぶりだしている。ことばはどんなふうに読まれたがっているか--そういう「夢」が書かれている。ことばがどんなふうに読まれたがっているかということを浮き彫りにするために、入沢は複数の作品を書いて「誤読」という世界へ読者を誘っているのである。