大橋政人「カボチャのツルの一〇センチ」 | 詩はどこにあるか

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 大橋政人「カボチャのツルの一〇センチ」(「ガーネット」52、2007年07月01日発行)
 大橋のことばは、この詩に書いてあるカボチャのツルのように動く。

今日、巻き尺ではかったら
一メートルだったツルが
次の日、一メートル一〇センチになっていた
先っぽのその一〇センチの部分が
伸びたということになるのだろうか
ツルには
新しく伸びる部分と
伸ばすための母体の二つの部分があるのだろうか

 大橋のことばは、新しく伸びる部分(先へ先へと進む部分)と、伸ばすための母体(先へ先へと進むことばを支える部分)の二つの部分があるのだろうか。
 普通はこんなふうには考えない。
 ただ単純に先端が伸びただけ、一〇センチ短い部分はきのうのツルの長さ。でも、確かにその継ぎ目はないし、本当に先端が伸びたのか、それとも先端はそのままで「母体」が伸びたのかはわからない。
 ことばもおなじである。
 ことばが先へ進んだのか。それとも先端にあることばはおなじままで、いままで書かれていなかった方向、過去(?)の方向へことばが伸びていったのか。
 大橋の詩を読んでいると、ことばは先端を伸ばすのではなく、先端をそのままにして、過去(?)の方へことばが伸びていくのだ、といいたい気持ちになる。ことばが、過去の方へ伸びることによって、現在が、その伸びにしたがって深くなる。味わいが深くなる。そういいたい気持ちになってくる。
 「現在」というのは、単純に「現在」としてあるのではない。それを支える「過去」がある。しかもそれは後ろとか背後とかにあるのではなく、「現在」の広がりそのものとして存在する。
 カボチャのツルに先端と母体の区別がないよう、現在にも、その先っぽと母体の区別はない。ただつながっている。そのつながりをつながりのまま、毎日毎日、「巻き尺ではか」るように、ことばではかる--それが大橋の詩なのだと思った。