「これ」も ことば
「それ」も ことば ことば「も」 ことば
そして「ことば」も やつぱり ことば
ありとあらゆることば その向う側に
いつたい何があるか 知りたいかい
きみにだけ 教へてあげよう 内緒だよ
地霊(グノーム)みたいな黒いこびとが一人
悲しい顔をしてしやがみこんでゐるのさ
(「ことば・ことば」)
これは何かを語ったことになるだろうか。ことばの向こう側に地霊みたいな黒いこびとがいる。悲しい顔をしてしゃがんでいる。そのことと私たちがつかうことばはどう関係しているのか。これではわからない。わからないけれど、そんなふうに書きたかったのだろう。
「知りたいかい」と問いかけてはいるが、ほんとうは入沢自身が知りたいのだろう。
「近世風の恋路」の末尾。
私はひとりごつ
〈イッペンコーコーのココロザシ〉
〈イッペンコーコーのココロザシ〉
何がゆゑの
何がための 物言ひなのか 呪文なのか
自分でも とんと見当もつかないまま……
意味はない。(ほんとうは意味があるのだが、意味がわからないのでは、ないに等しい。)しかしことばは肉体にしのびこんでくる。それが「唄」である。肉体のなかで「地霊みたいな黒いこびと」を育てるのである。それは「悲しい顔」をしているかどうかはわからないが、わからないものの向こう側に「わかる」ものが存在するはずだと教える。
「時の経つ間--ある小旅行のやや克明なメモ」。その冒頭。
今年一九八八年の旧暦文月十五日の夜は、生れ故郷の〈M〉市に
向かふ寝台特急〈I〉山号のなかで過ごした。翌朝十時十何分かに
〈M〉駅到着。
〈M〉〈I〉という頭文字。その向こうに、単純に「松江」「出雲」を想像する。ことばの向こうにはそういう「実体」がある--とは、しかし私は考えない。「黒いこびと」のような何物かが存在するとは考えない。
〈M〉〈I〉の向こうにあるのは、「松江」「出雲」を想像させる力である。ことばは、想像力をひっぱりだす。そして、その想像力は、読者が生きてきた時間をひっぱりだす。読者自身の経験がことばに反映され、ことばを読んでいく。作者の体験がことばを支えるのではない。読者の体験が、そこに存在することばを支える。作者は一人であるが、読者は複数だ。読者の数だけ、そのことばの読み取り方が違ってくる。〈M〉〈I〉を「松江」「出雲」と読み取っても、その読み取り方がおのずと違ってくる。路地の一本一本まで思い浮かべられる読者もいれば、日本列島の地図の位置しか思い浮かばないひともいる。ラフカディオ・ハーンを思い浮かべるひともいるかもしれない。特急の乗り心地を思い浮かべるひともいるかもしれない。さまざまに思い浮かべるものは違うが、〈M〉〈I〉がそういう思い浮かべをうながしていることだけは確かである。
ことばの向こうにあるのは、実は、読者の経験である。ことばを読むひとの経験がそこにある。人間は知っていること(体験したこと)しか知ることができない。ここから「誤読」が始まる。人間は誰もが自分の体験はかぎられたものであることを知っている。そういう自覚があるからこそ、他人の体験(ことば)にふれることで自分の体験を補いたいと欲する。夢を見る。その夢のなかに欲望が、祈りがまぎれこみ「誤読」へとつながる。しかし、この「誤読」はいつでも「真情」なのである。
〈M〉〈I〉という頭文字。そこに「松江」「出雲」を読み取りたいというのは、入沢を知っている読者の欲望である。小旅行は、入沢の故郷松江への小旅行である。「〈L・H〉資料室など見学。」という文字を見れば、そこにラフカディオ・ハーンをあてはめてみたいというのが読者の(私の)欲望である。入沢は頭文字を利用することで現実を仮構化したいのかもしれない。仮構化することでふるさととの距離をとりたいのかもしれない。しかし、読者は入沢の思いを裏切り、つまり「誤読」して、そこに故郷そのものをさがしてしまう。そして、頭文字であること、何かが隠蔽されていることを利用して、読者は「松江」ではなく、それぞれの故郷へ帰ることも可能なのだ。恩師に会うとか、なつかしい街並みを歩くとかいう行為を、自分の体験にしてしまうことが可能なのである。「誤読」とは、そうやって自分自身の体験を追認すること、欲望を発見することでもある。
「告別 Ⅱ」のなかに、
(観念の中にしか存在しない「邦」にむかつて
という1行がある。「観念」がどこまでの領域をもっているのかわからないが、あらゆることがらは、読者の、読むひとの経験のなかにある。