田原「墓」 | 詩はどこにあるか

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 田原「墓」(「現代詩手帖」2007年07月号、2007年07月01日発行)
 「千の風」という歌が流行している。田原の詩は、その歌と正反対の作品である。

死者は運ばれ埋められ
悲しみと記憶は
その時からここに定着する

 さっぱりしていて、とても気持ちがいい。悲しみと記憶は「墓」にさえあればいい。そこに悲しみと記憶が定着しているから、ひとは安心して日常を生きることができる。

生者はやって来て
墓碑の前で手を合わせ
足跡を残して、去る

 これもさっぱりしている。
 たださっぱりしているだけではない。
 次の3行がすばらしい。

墓は死のもうひとつの形
美しい乳房のように
大地の胸に隆起する

 墓は生きている。死者はもちろん死んだが、墓は生きている。悲しみと記憶は、そこに定着したまま生きている。それが「乳房」というのだから、うれしくなる。私たちは墓の前で、悲しみと記憶をいとおしむ。「乳房」を愛するように、悲しみと記憶を愛するのだ。
 生きているからこそ、次の行が生まれる。

墓も成長する、そこに立ったまま

 なんだか「乳房」が(乳首が?)立ったまま、どんどん成長していくようで、わくわくする。
 「死」は、たしかにこんなふうにして、愛され、美しいものとして世界に存在しなければならないのかもしれない。
 「死」を、そうした「いのち」としてみつめる田原の目に、すこやかな宇宙を感じる。抒情に汚れていない、いきいきとした宇宙を感じる。

 最後の3行も素敵だ。

墓は
地平線に育てられた耳だ
誰の足音かを聞き分けている

 墓はやってくる人の足音を聞き分ける。そのあと、どうするか。書かれてはないことを私はかってに考える。想像する。(この瞬間が、私は詩を読んでいて一番好きだ。)墓は、墓の前にきた人の足音を聞き分け、誰かを判断する。そして、そのひとにあわせて、悲しみと記憶を語りだすのだ。
 墓は墓の前にやってきたひととだけ交流する。
 とてもさっぱりしている。
 そして、さっぱりしているのに温かい。なつかしい。うれしい。「地平線」ということばがあるが、なんだか、ひろびろとした世界を切り開かれたような感じなのだ。とても遠くまで視界がひろがった感じがするのだ。
 友だちが尋ねてきて、のんで、歌って……「私はもう酔ったから寝る。あんたはかえりなさい。気が向いたら、あしたまた来なさい」という漢詩を思い出す。
 墓はきっと言うんだろうなあ。
 「思い出せることはみんな語った。もう帰りなさい。悲しみを忘れ、記憶がぼんやりしてしまったら、また来なさい。いっしょに悲しもう。いっしょに思い出そう」と。