とても美しい行がある。
光自体は色ではない
色彩とは事物自体の属性ではなく
事物が反射した光の波長
ならば、人が見る色彩とは
事物が拒否した波長であり
「壊れた光」にほかならない
「壊れた光」。この美しいことば。それを引き出す「拒否」ということば。
「想像力」を定義して、「ものをゆがめて見る力」と言ったのはバシュラールだったと記憶しているが、ここにはそうした「ものをゆがめて見る力」の美しさ、暴走してしまう精神の力の美しさがある。論理の暴走の美しさがある。
そして、この論理の暴走を支えているのが「ならば、」である。「ならば、」という「接続助詞」が城戸の「キーワード」である。前出のことばを引き受け、そのことばを明確に意識しながら次へ進むということばの運動。それが城戸の詩である。
この「ならば」は冒頭にも、ひっそりと溶け込んでいる。
「泉(トイレ)」という場所は
なぜ、それほどまでに瞑想的なのか?
その秘密を思いつつ、山上にあるならば
”雷鳴”のごとき沈黙が訪れる
この「ならば」はかなり強引である。強引にことばを動かしていくためにつかわれている。強引さが城戸のことばの特徴である。
この強引さは随所にある。言い換えると、強引な行の展開、ことばの展開のあいだに、「ならば」が書かれない形で存在している。
たとえば次の展開。
犬が吠えている
ときには「おうおう」と人のような声で泣き
あるいは「わうわう」と嘆くように泣く
そして、母音をふたつ掛け合わせると
どうしたことか、人間は
ひどく遠くへ旅立つことになる
生命には「死」という暗号が組み込まれ、
「生」とは、その暗号を
解いていくプロセスにほかならない
「ひどく遠くへ旅立つことになる」から「生命には「死」という暗号が組み込まれ、」への飛躍。ここに「ならば、」を挿入すると城戸の精神の動き、ことばの動きがよくわかる。そこにはほんとうは脈絡はない。自然な脈絡はない。城戸だけがつくりだした脈絡があり、その脈絡のあかしとして「ならば、」が隠れたまま存在している。隠れているのは、表に出てくると強引さが目立つからである。強引さを隠すために「ならば、」も隠れているのである。
もう一か所。
「気づくと窓の外に雪が降っていました
外に出てみると、雪の匂いがして素敵でした」
言葉から雪が匂い立つことがある
欲望に即したシンタックスでは
その色彩は記述しえない
「言葉から雪が匂い立つことがある」と「欲望に即したシンタックスでは」のあいだにも「ならば、」が存在する。「ならば、」を挿入したところで、論理が明確になるわけではない。客観的な論理、科学的な論理、倫理的な論理、あらゆる論理が「ならば、」の存在によってスムーズになるわけではないが、城戸は、そういう時に「ならば、」を欲する。そうして、その「ならば、」を省略した形で存在させてことばを動かしてゆく。
「ならば、」は接続助詞であるが、「接続」とは同時に「切断」を意識することでもある。「切断」した状態、本来つながっていないもの。そこへ向けてつながってゆく。
このつながりは、「接続」というよりは「飛躍」である。
ほんとうはつながっていないのに、城戸はその切断の「あいだ」を「飛躍」することで、「深淵」を消してしまう。「深淵」を消してしまうとき、同時に「ならば、」も消してしまっている、と言った方がいいかもしれない。
*
「消す」。消すことによる「飛躍」。そういう要素も城戸の詩の手法である。冒頭の
「泉(トイレ)」という場所は
ここにはデシャンが隠されている。消されている。有名なスキャンダルだから、そういうものは表に出さなくても誰もが知っている、だから書かない、といえばそれまでだが、そうしたことが随所に存在する。
こうした手法は、私には、「頭」で詩を書いているという印象として、強く残ってしまう。「ならば、」も「頭」の動きかもしれないが、「頭」の透明さではなく、どこか肉体の「不透明さ」があって、私は信じることができる。というか、あ、ここは信じてついて行ってみようという気持ちになる。「頭」で理解していることを捨てて、もっと論理の「肉体」で動いていけばおもしろいのに、と城戸の作品を読むたびに思う。