「スパンコールドレス」という詩がある。そのなかほど。
真っ白な乳房の先に
桜の花びらを ひとひら
くっつけたような
彼女のはだかは理解不能に幼い
バラの蕾しかつんだことのないような
細い指先で
なぜか彼女は煙草ばかりを吸う
ことばを書くことに夢中な感じが伝わってくる。詩はたしかにことばを書くことに夢中になるところから生まれてくる。そうではあるけれど、そのことばと肉体が切り結ばなければおもしろくない。
この東のことばが紙に印刷されたものではなく、たとえばロックスターか何かが肉声で歌ったものであるのだとしたら印象は多少は(かなり?)違ったものになるかもしれない。
声というものは独自の肉体を持っている。
「彼女のはだかは理解不能に幼い」の「理解不能」は井上陽水が彼自身のメロディーにのせて歌えばとても強烈に響いてくる、伝わってくるだろうと思う。絶望的に美しく輝くだろうと思う。
井上陽水自身の声が、ことばに背景を与える。声の奥にある肉体、くらい闇が、ことばの透明さ、輝きを浮き彫りにするのだ。
ところが東のことばには、そういう不透明なものがない。不透明なものがないから、どれだけ透明なことばを重ねても、それは輝かない。透明なものは不透明なものといっしょに存在してはじめて透明なのだ。そして究極の透明なものは見えないし、また見えたと錯覚した部分も実は光の反射を見ているわけで、一種のめくらましの世界である。
東がほんとうに詩を書きたいと思うなら、この詩集に書いたことばを全部否定するところからはじめなければならないだろうと思う。否定すべきことばの一覧表をつくった、という意味では、それなりに東にとっては意味のある詩集かもしれない。