入沢康夫『遐い宴楽』(書肆山田、2002年06月20日発行)。
「旅するわたし--四谷シモン展に寄せて」。つくられた「人形」が「わたし」。その「わたし」が歌う歌が「旅するわたし」である。その2連目の後半。
しかし 仮に あらゆる部分をとり除かれても
それでも わたしは在る 在らざるを得ぬ
わたしの造り主の《彼》
《彼》が居るかぎりは--
人形からあらゆる部分が取り除かれても、それは人形だろうか。だいたい「あらゆる部分」を欠如したものなど存在しうるのか。存在しうる、と「わたし」は考えている。「わたし」は人形として存在するように見えるけれど、ほんとうは「造り主」の意識のなかにこそ存在するのであって、意識の外に存在するものは仮初めのものなのである。
客観的に存在するものよりも意識内において存在するものを優先する、という入沢の重いが強く出た行である。
この部分では「在る」と「居る」がつかいわけられている。
ただし、そのつかいわけは、この部分だけでは、何が根拠になっているかはわからない。
「在る」は現実世界にも想像世界にもつかわれることばであるけれど、「居る」は現実世界においてのみつかわれるということだろうか。
どうもはっきりしない。
はっきりしないからこそ、「在る」と「居る」とつかいわけられた主語が混じり合うということも起きる。
動くべくして動かぬ木製の歯車の苦い笑ひは
宇宙の無限性(夢幻性?)へのわたし(彼?)なりの挑戦で
「わたし」と「彼」は無限の宇宙(夢幻の宇宙--つまりは、現実というよりは意識のなかで考えられた宇宙)で、見分けがつかなくなる。一体になる。--このことを入沢は「宴楽」と呼んでいるように思われる。
「遐(とほ)い宴楽(うたげ)」には、人形と作者ではないが、「きみ」と「ぼく」という二人の人間が登場する。二人は人形の「わたし」と造り主の「彼」が融合したように、重なり合う。
たたなはる朱色の雲の下で
ぼくたちは果てしない夢について
果てしなく語り合つた
ときには同じものを違つたやうに見
ときにはまつたく違つたものを同じと見ながら……
あるときは二人は「同じもの」のなかで違った存在になる。これはひとつのもののなかで「ふたり」が存在することである。またあるときは「違ったもの」のなかで「ひとり」になる。
どちらも「誤読」である。
「誤読」というのは「ふたり」の人間が存在することが必要なのである。
「人形」は、四谷シモンというひとりの人間が世界を「誤読」するためにつくりだした「もうひとりのわたし」ということかもしれない。
「誤読」する。その「誤読」こそが世界のすべてであるとするなら。
わたしは誰? 誰? 誰? だれなの?
そして ここ ここはどこ?
どこなの?
「旅するわたし」のこの冒頭の3行は罪深い行である。それが人形であるにせよ、「誤読」のために出現させられた存在である。その目的を人形は知らない。そして、その知らないという悲しみが--悲しみでありながら、不思議な郷愁を誘う。なつかしさを誘う。その3行は、人間の、永遠の疑問と重なるからだ。
そのことを入沢は「遐い宴楽」で別のことばで語っている。
わけのわからぬ「恋情」にかり立てられ
本当には無いかもしれないものを追ひ
或いは 追はれて
一生をむざむざと費消(つか)つたのは
さう ぼくも きみも同じことだね
「同じこと」。「こと」のなかでふたりは識別のつかない「ひとり」になる。
「誤読」するために生まれ、「誤読」をとおして、ひとは「ひとり」になる。永遠の存在になる。その夢が、ここでは語られている。