「Ⅵ 《鳥籠に春が・春が鳥のゐない鳥籠に》--死者たちの群がる風景3」の最終連、この詩集の最後の連に置かれたことば。
あの隻眼の西方の遊行びとは問うてゐる。
「われわれの行為は、ことごとく、
われわれの内部にある死者の行為なのではあるまいか。」
おそらくは然りだ。われわれの生存の道順に従つて
死者の群がる風景は展開する、鈍重に、時としては過激に。
(谷内注・「問うてゐる」は「問ふてゐる」か?)
引用されているのはラフカディオ・ハーンのことばだろうか。引用は入沢の作品にとって重要な要素となっている。ことばを引用し、そのことばが含んでいる運動を展開する。展開の仕方によって、「誤読」の世界が始まる。引用されたことばは、私たちの血、神経、肉体、感情となって、私たちを動かすのだともいえる。私たちは、先達の残したことばに従ってことばを学び(真似しながら)、私たちのことばを育てるが、それはある意味では、私たちのことばは先達の残したことばによって動かされているのだとも言い換えることができる。
「引用」は、この作品に書かれている「死者」と同じなのである。
ことばは先達の残したもの、「死者」となった人々が残したものを基本に動いて行く。「引用」できることばに従って動いて行く。「引用」とは「死者に群がる」行為なのである。「引用」に群がり、そのことばの世界を私たちの生きている世界へひきずりこむ。死者をよみがえらせるように。
だから、少年の日、私は何度も死んだ。
その度に女神たちは私を生返らせた。
この作品に書かれているこの死と生の物語は、「引用」(先達のことばに触れる)ことを契機としている。他者のことばに触れる。そして、それまで知らなかったことを知る。(そこには、とうぜん「誤読」も含まれているのだが。)そのとき、そのことばを知らなかった「少年」は死に、同時に、そのことばを知ってしまった「少年」として生き返る。死と生をもたらす「女神」は同一の存在である。
死と生が深く絡みついているからこそ、その「引用」のことば、「少年」の触れたことばの意味は、「少年」には正確にはわからない。また、大人になった入沢にもわからない。
メモ「38」でけ触れた「今だつて判つてやしないけれども。」は、そうした事情を語っている。
「引用」に群がり、展開することば。「引用」されることで「われわれの内部」に存在することになる「ことば」。その運動は、今の私の肉体と感情を通るがゆえに、「引用」されたことばのままでは動けない。何物かがつけ加わる。そのために、時として「鈍重に」なる。また時として「過激に」なる。
詩集全体をとおして、入沢は入沢自身の詩の方法を語っているのだといえる。