入沢康夫と「誤読」(メモ38) | 詩はどこにあるか

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 入沢康夫『死者たちの群がる風景』(1982年)。
 昨日書いたメモと矛盾するかもしれない。だが、「洞察力」とはまた別の「誤読」もある。「Ⅵ 《鳥籠に春が・春が鳥のゐない鳥籠に》--死者たちの群がる風景3」の次の部分。

「今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣(わか)れよう。」
その一行が好きで好きで、
そのくせ「記憶の旗」とは、それが「落ちる」とは
どういふことか、少しも判らずに……。
今だって判つてやしないけれども。

 この連に出てくる「好きで好きで」という感覚。
 私たちは何もわからなくても「好き」という感覚で、何かを信じてしまう。「誤読」する。精神は何一つ理解していない、という意味で、それが「好き」と感じること自体が「誤読」なのである。しかし、こういうとき、私たちの感情、「好き」という感覚自体は何一つまちがえてはいない。嫌いなものを「好き」と勘違いしているわけではない。嫌いであるかどうかの判断を超越して「好き」と信じている。
 この理不尽な、理由のない「好き」という超越的な感覚--そこには、何か全体的な真実がある。
 「誤読」には超越的な何かが存在する。

 いま引用した連に先立つ2連。

濠の水面には藻の花が星のやうに連なり、はじけ、笑ひ、
私には何一つ思い出すべきこととてなかつた。
何度か(何度だつたらう)高く飛ばうとして、その都度鞭打たれた。
あの高い鳥影。
あの翼ある蛇。

だから、少年の日、私は何度も死んだ。
その度に女神たちは私を生返らせた。
ドクダミの白い花で飾つた山車の上で彼女らは、
母乳で溶いた蛤の殻の粉を、
私のただれた全身に塗りたくつて踊つた。

 「だから」。
 「だから」で結ばれることばには論理的な脈絡が必要である。しかし、ここには脈絡はない。強引な結びつきがあるだけである。その結合は、超越的である。論理は「頭」では追うことができない。ここに書かれてある「だから」を追うことができるのは「こころ」だけである。「好き」かどうかを判断する感覚だけである。

 「洞察」と感情の超越。それが結びついたとき「誤読」は完璧になる。他人にとって、という意味ではない。そういう「誤読」を生きる人間にとって、という意味である。
 あることばを「洞察」し、その先がどうなるかを判断し、それを「好き」と思った瞬間から、それは全体的な価値になる。だれもその価値を否定できない。「誤読」は、そうやって確立されるのである。