遠藤誠「龍虎図」 | 詩はどこにあるか

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 遠藤誠「龍虎図」(「フットスタンプ」14、2007年06月01日発行)。
 書き出しが印象的である。

 その声は粉々に砕かれて垂直に立ち上り、やがて重力に逆らい濃密な意味を軽やかに振り落とすと、さらに馴れ合う必然性をどこまでも逸脱していく。

 落下と重力の関係が、私の意識とは逆である。私なら

 その声は粉々に砕かれて垂直に「落下し」、やがて重力に逆らい濃密な意味を軽やかに「舞い上げる」と、さらに馴れ合う必然性をどこまでも逸脱していく。

 となる。
 遠藤のことばのようには動かない。私の想像力は遠藤のことばとは違うことを想像してしまう。ことばの粘着力を利用して、通常ではありえない世界、私の想像力では思い描けない世界を書こうとしている。とても期待してしまった。
 ただし、2連目以降、印象が違ってくる。
 1行あきのあと、2連目。

 いや、それは情念の暗がりに蟠っていた決別のことばだったろうか、あるいは縺れた感情の糸を絶ち切るように発せられた断末魔の不穏な叫び。初め恨みまがしい粘りを帯びた声の波動が胸の辺りに重い衝撃として打ちあたると、得体の知れない感情を抉り出すように深々と沈み込んできて、次ぎの瞬間にはわたしという存在の網目を突破する鋭い痛みの束となって通過していったのだ。

 粘着力を利用した文体を最近は読んだ記憶がない。こうした文体は、どこまでつづけることができるかが作品の善し悪しを決める。
 そして、この「持続」という問題に関して言えば、遠藤は成功していない。粘着力はあるにはあるのだが、その粘着力は1連目と性質がまったく別のものになっている。
 「情念の暗がり」「蟠っていた」という表現。そこには、ことばの「裏切り」がない。1連目にあったような「重力に逆らい」「振り落とす」といった、想像を超えたものが描かれていない。想像を超えず、逆に「流通している概念」にこびるような文体になってしまっている。
 「恨みまがしい」「粘り」「帯びた」、「重い」「衝撃」、「得体の知れない」「感情」。どのことばの結びつきも「流通」しきっている。私はときどき、こういう表現を「抒情にまみれている」と呼ぶが、そこには「流通している抒情」しかない。
 1連目の印象が強烈で、期待が大きかっただけに、読み進むにしたがって、なんだか残念な気持ちになった。

 詩の最後。

 メールに曰く、「表参道ヒルズのジャン・ポール・エヴァンでマカロンを買って早く帰れ」と共棲する佳人は、風雅に在らずその迫力月日とともに龍虎いずれにも似て、またもわたしを救う。

 笑い話を書きたかったのかもしれない。私がだまされただけだったのかもしれない。最初の1連は、ここに書かれていることは「虚言」ですよ、という「お知らせ」だったのかもしれない。
 それにしても「佳人」とは、よく書いたなあ、と笑い出してしまう。笑い話ではなく、おのろけが書きたかったのかな?