入沢の作品には「連作」が多い。そして「連作」は「連作」であると同時に「別稿」でもある。いくつかの作品を集め、ひとつの世界を構成するというよりも、ある世界のために書いたことばを修正し続けるという感じがする。しかも、その「修正」は作品そのものというよりも、「修正」することが目的なのだ。あることばを書き直す。そのときの精神の動き、動く瞬間に見える何か--それを求めているような印象が非常に強い。
「Ⅰ 潜戸から・潜戸へ--死者たちの群がる風景1」。その冒頭。
「我らは皆、
形を母の胎に仮ると同時に、
魂を里の境の淋しい石原から得たのである」
といふ民俗学者の言葉を、
三つ目の長編小説で終章の扉に引いたあの先達も、
夜見の世界へと慌しく駆け去つて行つた。
「民俗学者」のことばを引用すると同時に、入沢は「先達」のことばも引用している。そして、冒頭の3行は「民俗学者」と「先達」が共有すると同時に、入沢も、それについて言及することで共有し、さらにそのことばを読む私たち読者も共有する。
ことばは共有される。共有されることでことばそのものになる。
まこと、残された者は、死んだ人々の
「代わりに、一つ一つ」言葉の「小石を積み重ねて
自分が生きてゐることの証(あかし)とする」ほかは
「ないのだらうか」。
冒頭の部分に続く4行だが、この4行はとても不思議な4行である。括弧でくくられた部分は「引用」であることを明示するのだろう。出典は詩の冒頭の「民俗学者」のことばが、あるいは長編小説を書いた「先達」のことばである。「先達」のことばと理解するのが文意の流れからいって自然かもしれない。出典が明示されていないので、あいまいである。そういうことも疑問ではあるが、それよりももっとわからないことがある。
「ないのだらうか」。
この1行は、ほんとうに「引用」なのか。出典はたしかにあるのだろうけれど、出典として明示するだけの意味があるのか。つまり、「引用」であると断らなければ「盗作」になるような行だろうか。「ないのでらうか」という推測は誰もがする。「民俗学者」や「長編小説」を書いた「先達」だけがするのではない。こういうことばまで「引用」だと仮定すると、引用ではないことばなど存在しなくなる。
この1行が「引用」である、と断らなければならない理由があるとしたら、「民俗学者」「先達」が「ないのだらうか」と推測したことに対して、入沢が異議をもっているときだけである。「民俗学者」「先達」は「ないのだらうか」と推測しているが、入沢は、推測する必要がないと考えている。そういう意味をこめたとき、それは「引用」と断る必要がある。
そして、もし、そうだとするならば、ここではことばの共有は破綻していることになる。「民俗学者」と「先達」は、生きている人々は死んだ人々のかわりにことばの小石を積み上げて生きている証とするほかは「ないのだらうか」と推測したが、入沢はそういう推測をしない。生きている人間は、そうするのだ、と「断定」するのだ。
そのとき、生きているひとのする行動は、実際には「民俗学者」も「先達」も入沢もおなじことをすると考えていることになるが、その同じことのなかに微妙な差異がある。「民俗学者」と「先達」はそういうことを「推測」しているのに対し、入沢は、そういうことを「断定」している。
ことば共有され、繰り返されるうちに「推測」から「事実」へかわっていってしまう。入沢が詩のなかで書きたいのは、たぶん、そういう変化なのである。
ことばは最初は「推測」や「夢」であった。しかし、人々のあいだで繰り返され、語り継がれるうちに、「推測」「夢」が絶対に譲れない「事実」、こころが描く「事実」になってしまう。--ことばを、そんなふうにかえていく力、それを私は「誤読」の力と呼ぶのだが、そうした力の存在をこそ、入沢は書こうとしている。書き続けていると私には感じられる。
ことばの継承、事実の継承。そうしたことに触れた別の部分。
岸の岩に黒ぐろと立つ三本腕木の絞首台を目撃した、
腕木の一本は実際に用ゐられてゐるのを
たしかに見たと、雑誌連載の旅行記に書いた。
真偽について論議のある記述だが、
これに触発された別の詩人が名高い詩を仕立て、
その詩がまた、いま一人の詩人の作品の
きつかけになつたといふのは事実である。
「腕木」を目撃し、雑誌に旅行記を書いたのは「軍医」である。(引用が長くなるので、その部分は省略した。)それをもとに詩人が詩を書き、さらにその詩を読んで別の詩人(入沢)が作品を書く。その過程で、「ことば」は共有され、「事実」にかわる。最初のことばの「真偽」が不確かであるにもかかわらず、「事実」として引き継がれていく。それを「事実」と感じたい、信じたい人間が存在するからである。
このときほんとうに確かなことはひとつしかない。
「ことば」がつぎの「ことば」を引き出し、さらにまた別の「ことば」を引き出す。「事実」として存在するのは、そういう「ことば」の運動だけである。「ことば」の運動の奥には、そのことばをどういう風に理解したいかという人間の願望がある。それがことばを動かしていく。「誤読」だけが「事実」なのである。最初のことばが真実であろうと、虚偽であろうと、なんの関係もない。