稲葉京子「忘れずあらむ」 | 詩はどこにあるか

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 稲葉京子「忘れずあらむ」(読売新聞2007年05月22日夕刊)。
 垂直に立っている人間が見えてくる。

えごの花こぼれやまずも私のいのちあなたのいのちの上に
針桐(はりぎり)の林さは立ちほろほろとはだれの光あそびゐるなり
葱(ねぎ)の畑葱の坊主はつんつんとおのが丈もて天に触れゐる
億万の偶然必然に導かれ今われは北上青柳町の辻に立ちをり
杉山の杉の緑はたつぷりと墨を含みて佇(た)ちゐるものを
道の辺の大蕗(おおふき)の葉に雨こぼれ手折らばわれの傘となるべし
都忘れ五、六本ほど咲かしめてしづけきかもよみちのくの家

 2首目「立ち」、5首目「立ちをり」、6首目「佇(た)ちゐる」。繰り返しつかわれている「立つ」のことばの響きのせいだけではなさそうだ。
 「杉山の」の歌が私は一番好きだ。この歌には(そして他の歌もそうだが)、私は省略されている。省略されているが、なぜか作者が見えてくる。歌の対象と正確に向き合い、対象と一体になり、そしてもう一度「私」に帰ってくる。そういう印象がある。
 自然の草木をくぐりぬけるというのは人間には大切な時間かも知れない。人事ではない時間の中でこころを洗うのは大切な時間かもしれない。

 「大蕗」の歌は、最後の「べし」がとても気持ちがいい。大蕗と作者がまったくの同等の存在となっている。同等と認めるから「べし」というのだ。