入沢康夫と「誤読」(メモ29) | 詩はどこにあるか

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 入沢康夫『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』(1978年)。
 「第六のエスキス」では「第五のエスキス」の「あなたたち」は「あなた」に、「私」は「私たち」に変わる。「一」の冒頭。

あなたに追はれる(あるひはあなたを迎へる)私たちの長
旅のなかばで、つひにとり戻すすすべもなく失はれた私た
ちの真の役割。

 「私たち」とは何だろうか。なぜ「かつて座亜謙什と名乗った人」は複数になるのか。手がかりが「二」の冒頭にある。

あなたは終始踏み迷ふ、私たちの作つたフローチャートの
上で。

 「第五」の「地質図」が「フローチャート」にかわっている。「フローチャート」とは生産工程の一覧表、手順図のことだろうか。第一稿、第二稿、第三稿、第四稿……、と順番にならべたもののことだろうか。「校異」に踏み迷うだけではなく、どれが「第一稿」手あり、どれが「第二稿」、どれが「最終稿」かも迷うとということだろう。
 「私たち」の「たち」、その複数形は、第一稿、第二稿、第三稿、第四稿……、という原稿の複数の存在をあらわしている。「たち」と複数ではあっても、「かつて座亜謙什と名乗った人」はほんとうはひとりであり、複数を追うのは、「ひとり」をより鮮明に把握するためである。
 そしてこのとき「ひとり」は、どれが「最終稿」であるかを特定したときに「ひとり」の姿が鮮明になるのかというと、そうではない、ということが問題として残る。「最終稿」にとだりつくために「作者」が訂正、加筆、削除を繰り返した、そのことばの乱れ、ひとつに修正しようとする姿勢そのものが「ひとり」の全体像であり、その過程を省いてしまえば「ひとり」の人間のある一面を見たことにしかならない。
 「踏み迷ふ」。迷わないことが「正しい読み」につながるのではなく、迷うこと、迷いながら「誤読」を繰り返すこと--そこにこそ「正しい読み」が潜んでいる。「誤読」こそが「正しい読み」であるということもありうるのだ。「誤読」抜きではつかみとれないものがあるのだ。

 「かつて座亜謙什と名乗った人」を追う詩、この作品は、また、入沢の詩と読者との関係にもなる。入沢のこの詩集の複数のバリエーション。そのなかでどれが「最終稿」なのか、どれが「第一稿」なのか。数がさかのぼるほど「初稿」に近付くのか。逆に、それは「初稿」から遠ざかるのか。数が増えるほど「草稿」が捏造されているのではないのか。そういう疑問が、常に私の頭にはつきまとっている。校異が増えれば増えるほど、「エスキス」が「最終稿」であると同時に「第一稿」という印象が強まる。他の部分は「エスキス」のあとに捏造された、架空の「過去」という感じがする。
 なぜ「過去」を捏造する必要があるか。
 「テキスト」のなかで読者は「踏み迷」わなければならない。迷い、「誤読」しないことには、読者自身が自分の読みたいものを発見できないからだ。読者自身が自分の読みたいものを発見し、その発見を作品に託すとき、作品は読者とともに生きるのである。「思い入れ」を省いた「科学」のなかには、文学のいのち、ことばのいのちは存在しない。「誤読」の「誤」の部分に、ことばを引き継いでゆくエネルギー、ことばを育ててゆくエネルギーがある。

 ことばは、そうやって「誤読」で引き継がれてきた。
 だからこそ、その「誤読」の過程をたどり直す、ほんとうに作者が言いたかったことは何なのか、「フローチャート」を克明に分析し、たどり直すのは、「誤読」を修正するためである。ただし、修正するといっても「正しい理解」をするためではなく、いま、ここで流布している「誤読」から自分自身の目を洗い直すためである。
 他人の「誤読」、「私たち」の「誤読」ではなく、「私」オリジナルの「誤読」をもとめる--それが、この作品のテーマだろう。



 「エスキス」が「最終稿」であり、また「第一稿」あり、数が増えるにしたがっての「エスキス」は次々に捏造された架空の草稿である--というのが私の考えだが、もちろん、その証拠はない。
 ただし、とても不思議なことがひとつある。
 「かつて座亜謙什と名乗った人」の残したとされる「作品」の数が違っている。「第五のエスキス」では「千百七十八枚の紙を連ねて作られた白い道」。「第六のエスキス」では「千九百七十一枚の黄色い紙を綴り合はせた細い道」。そして「第八のエスキス」、「第六」から「第七」(詩集にはそれ自体の形では存在しない)の「校異」を「フローチャート」にしたものには「千九百七十一枚の黄色い紙を綴り合はせた細い道」。
 この「第八のエスキス」には「あなた→私たち」という主語の変化、追うものと追われるものの転換を書いているにもかかわらず「千九百七十八枚」と「千九百七十一枚」の違いには触れていない。ここに、この作品の誕生の秘密が隠されている。

 「エスキス」の最初の発表年を私は正確には知らない。「1971年」に『倖せ それとも不倖せ 続』が発行され、1977年に『「月」そのほかの詩』が発行されている。「エスキス」は1977年の詩集のなかに含まれている。1977年以前の作品、おそらく1971年に書かれたものであると思う。
 そして『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』は「1978年」の発行である。これは1971年に「第一稿」があり、それを1978年までに「校異」を捏造する形でつくったということを読者に知らせるための「暗号」のようなものだろう。
 「九連の散文詩」といいながら「八」の部分は欠落し、詩集では「第八のエスキス」が存在する。この複雑な暗号(暗号があることを知らせる暗号)のような部分に、問題の「千九百七十一枚」「千九百七十八枚」が出てくる。しかも「校異」には触れずに。

 これは私の「誤読」か。
 たしかに「誤読」なのである。私の推測が正しかろうが間違っていようが、それは問題ではなく、私は、入沢が「1971年」に書いた「かつて座亜謙什と/名乗った人への/九連の散文詩(エスキス)」を出発点に、1978年までかけて詩集を完成させたと読みたいのである。



 「かつて座亜謙什と/名乗った人への/九連の散文詩(エスキス)」が発表された正確な年代、および初出誌をご存じの方がいましたら教えてください。