藤維夫「道」 | 詩はどこにあるか

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 藤維夫「道」(「SEED」12、2007年05月10日発行)。
 2連目が印象深い。

山へ行くと枝が針金のように鋭く刺さって
崖崩れに傾いている
こころに沁みるときの勢いもあって
地にふかくつながっているのだから
もとへもどる場所を探して
微笑みをかえしてくれればいいのだが
崖っぷちのいつもの空の方を見る
動揺も孤独もないがあまりにもわかりきった道である

 「こころに沁みるときの勢いもあって」。主語は何だろうか。「枝」か。「枝」につながる木だろうか。木と仮定すると、「地にふかくつながっているのだから」のつながっているものは木の根になるだろうか。
 具体的なことはわからない。
 わからないけれど、私は一本の木を思い浮かべ、その剥き出しの枝、見えない根を思う。そして「こころに沁みるときの勢いもあって」の「勢い」ということばに誘われて、生きているいのちというものを思う。
 崖崩れの方へ傾いている木。それは生きているのか。死んでいるのか。1連目に出てくることばを借りていえば「まだ生きたかっこうのまま」である。その木が、あるとき、その木を見つめていのちの勢いを感じたときのように、もう一度勢いをとりもどして大地にふかく根を張りなおし、生きてほしいと思っているのだろうか。枝が緑の葉を生い茂らせ「微笑みかえ」すように輝いてほしい願っているのだろうか。

 あるいは「こころに沁みるときの勢いもあって」というのは、感傷的になっている藤自身を反省して見つめなおすことばだろうか。
 夕暮れ、「はやく死んでしまったひとのことがしきりに思い出され」、その人が「生きた格好のまま」どこかで「途方にくれ」ている(1連目)と想像したために、何もかもが「こころに沁みる」、そういう感傷的な勢いで、木はまだ生きていると思ったと自分の心を見つめなおしているのだろうか。

 わからない。わからないまま、藤のことばと私の意識がつながる。そして、そのとき、そこに一つの風景がある。

崖っぷちのいつもの空の方を見る
動揺も孤独もないがあまりにもわかりきった道である

 「動揺も孤独もない」。風景は感情を超越している。そういうものに感情はきれいさっぱり洗われて、清潔な状態に戻る。
 この感じ、透明で、感情が吹き払われていく感じが、冬の野の、あるいは冬の山の美しさとして目の前にあらわれてくる。

 3連目は、私には、それが必要なものかどうかわからない。きれいさっぱり吹き払われた感情が、もう一度、感傷にまみれる。そんな感じがする。