丁海玉「クリーンセンター」、入江田吉仁「県立農高園芸クラブ」 | 詩はどこにあるか

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 丁海玉「クリーンセンター」、入江田吉仁「県立農高園芸クラブ」(「ドードー」13、2007年04月20日発行)。
 丁海玉「クリーンセンター」はごみを捨てる詩である。最終連にとても美しい1行がある。

ビニールの袋詰めに
消えかかったカバンのロゴ
履かなくなった運動靴のかかと
折れたバインダーの表紙
破れた傘の柄
が、透けながら落ちていく
穴の底で小さな点になっていく

 「透けながら落ちていく」。強い視力だ。ものが移動するとき、一種の錯覚なのだと思うけれど、隠れているものが隠しているものの形で浮かび上がる。そう感じるときがある。たぶん、その感じのことを書いているのだと思うが、あ、そうか、あれは「透けながら」という状態だったのだと教えられる。
 丁海玉には見えるものを見えるままの形で書こうとする強い意志がある。見えないものは書かない。わからないものは書かない。肉眼と実感を大切にしている。
 だからこそ、引用につづくことばがこわい。

落ちて行った先を
ずっと眺めていたかったが
むこうのものに引かれて
しまっては、いけない
こっち、こっち、と
わきあがる声に足首がすくわれて
しまっては、いけない

 「落ちて行った先」に誘われるこころがあることを自覚している。そのこころは「こっち、こっち」という声をはっきり聞いている。「すくわれて」はあるときは「救われて」に通じることを知っている。「墜落(落下)」がひとの何かを「救う」ということがあることを知っている。
 「救われて」クリーンになるということが、あるのか。
 丁海玉は、一方でことばになりそうな声をひきとどめている。

 そういう瞬間を感じる。「透けながら落ちていく」に、そうした緊張感を感じる。



 入江田吉仁「県立農高園芸クラブ」はスイカの描写がすばらしい。

日清戦争より前、夏、精太郎はすっぱだかになってすいかの体内に飛び込み、
そこで姫君に会い、一夜をすごした。
堀内は、休暇を取っては、鉈(なた)で赤い肉に穴を開けて入り、
黒いゴーグルで目を護ってあま汁を掘る。
かんかん照りの日は蜜が湧いて出る、と言う。

 いくつかに切り分けられ、ラップでおおわれたスイカではなく、まるごとのスイカがここにある。スイカを作って食べるというか、大地としっかり結びついたいのちの豊かさがある。「精太郎」も「堀内」も私の知らない人なのに、まるでなつかしい悪友のように迫ってくる。大地と結びついたスイカ、その結びつきの強烈さが、入江田の友人を呼び寄せる力で私の幼友達を呼び寄せる。
 ああ、スイカが食べたい。スイカにかぶりつきたい。