鈴木正枝「ひとりの重さ」 | 詩はどこにあるか

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 鈴木正枝「ひとりの重さ」(「るなりあ」18、2007年04月15日発行)。
 鈴木は学校の先生だろうか。不登校の生徒と向き合っている。

そっと
一枚の自分を差し出す
長い指にはめられた
いくつものリングは
きみの主張だね

だから
橋本くん

大小の金属が絡み合う音
を聞きながら
一枚のきみに
今日の印鑑を押す けれども

ジーパンの腰にも
二重の鎖がぶら下がり
耳にもさらにリング
どうしてそんなに
自分を重たくしてしまうの

橋本くん

ますます家から出られなくなってしまうじゃないか
ますますひとで会話するようになってしまうじゃないか
それでもきょうは会うことが出来たから
きみの歩いている音
をずっと聞いている

私が知らなくても
きみならきっと知っている ということを
知らなくてはだめだ 私は

 「私が知らなくても/きみならきっと知っている ということを/知らなくてはだめだ 私は」という「結論」がどこからでてきたのか、私にはよくわからない。
 鈴木は「大小の金属が絡み合う音」を聞いていると書いているが、どんなふうに聞いているのか、聞こえているのか書いていない。かわりに「どうしてそんなに/自分を重たくしてしまうの」と視点を体が感じる「重み」に置き換えている。
 「音」から「重み」への視点(思考)の動きが、何が原因でそうなったのかわからないから、「結論」もどうしてそうなのか、わからない。
 「音」はこの詩には2回出てくる。「大小の金属の絡み合う音」「きみの歩いている音」。せめて、その音と音とのあいだにどんな違いがあるか、どう聞こえたかを「橋本くん」に鈴木自身のことばで語ることができたら対話がはじまるのではないのか、と思ってしまう。
 「聞いた音」「聞こえた音」に対して、鈴木はどんな「音」をかえすことができたのか。
 「印鑑を押す」とき、どんな音がした? それは「橋本くん」にはどんな音として聞こえただろうか。どんな音として聞こえたと鈴木は想像するだろうか。会話を拒否している、自分の部屋から出ていこうとしていないのは鈴木自身ではないのか、と思ってしまう。 この詩の最後の連。

尋ねたりはしない
からだの中で次第におおきくなっていくもの
が気道をふさぎ始めている
それが現実
の重さである

 何を「尋ねたりはしない」のだろうか。「どうしてそんなに/自分を重たくしてしまうの」という問いかけを指しているのか。「からだの中で」と鈴木がいうとき、その「からだ」は誰のからだ? 「橋本くん」のだろうか。鈴木自身のだろうか。
 「橋本くん」のからだの中で何かが大きくなり、それが気道を圧迫して、橋本くんが「現実/の重さ」を感じているというのだろうか。どうして、そんなことを想像したのだろうか。
 あるいは「橋本くん」に「どうしてそんなに/自分を重たくしてしまうの」と尋ねなかったために、鈴木自身の中で何かがおおきくなってゆき、それが気道を圧迫し、その圧迫を現実の重さとして鈴木が感じるということだろうか。たぶん、そうなのだと思う。最終連は鈴木自身の感じている彼女のからだの重み、現実の重み、なのだろう。ひとりの不登校の生徒と向き合わなければならない現実、何も解決できない現実--その重みと鈴木はこんなにていねいに向き合っています、と訴えているのかもしれない。
 その苦しみは、詩からはっきり聞こえてくる。
 しかし、その声よりも、私はもっと聞きたいものがある。鈴木にもう一度はっきりと尋ねたい。(尋ねたりはしない、という態度は私はとらない。)「橋本くん」がからだにつけていた金属の音はどんな音を立てていたんですか? 「絡み合う」とだけしかいえませか? 「橋本くん」も「絡み合う音」として聞いていたと思いますか? 違うのではないだろうか。「橋本くん」は、彼がからだの中で聞いているその音をこそ、鈴木に聞いてほしくて鈴木に会いに来たのではないのだろうか。せめて、その音がどんなふうに聞こえたか、そこから対話したいと願っていたのではないだろうか。

 「橋本くん」はせいいっぱい自分自身を作り替えようとしている。変わろうとしている。しかし、鈴木は自分自身をかえようとはしていない。「橋本くん」をかえようとしている。「橋本くん」は自分自身をつくりかえるのを手伝ってほしいと祈るような気持ちで鈴木に向き合っている。いっしょにかわってほしいと願っている。でも、鈴木は鈴木自身がかわることを拒否している。
 「学校」で起きていることを、まざまざと見た思いがした。