オリバー・ストーン監督「ワールド・トレード・センター」 | 詩はどこにあるか

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監督 オリバー・ストーン 出演 ニコラス・ケイジ

  9・11テロ。貿易センターへ救出に向かった警官がくずれるビルの下敷きになる。そして奇跡的に助け出される。その様子を描いている。ただし、力点はその救出の様子でも、 9・11テロのむごたらしさでもない。「家族」というものの存在、それが人間の生きる力になっているという今、アメリカを覆い尽くしている感情である。
  9・11テロでの死者は約3000人。この3000人という人のことを私たちは考えることができるか。ひとりひとり個別の人間として識別し、それぞれに愛情をもってなにごとか想像することができるか。私にはできない。そして、この想像できないということに対して、私自身しようがないという思いがどこかにある。また、3000人という固有名詞を取り去った抽象的な数としてしか考えられないところに、このテロのおそろしさがあるとも思うのだが……。
 実際の当事者、自己に巻き込まれた犠牲者、そしてその家族にとっては、3000人とはどういう存在だったのか。
 この映画では、3000人についてはほとんど描かれていない。「私の夫はどうなったのか」「私の父はどうなったのか」「私の息子はどうなったのか」という、ほとんど1人への思いが語られるだけである。死者が何千人になろうと、家族にとって死者はそのうちのひとりではなく、あくまで絶対的なひとりなのである。そのことを映画は延々と語る。
 そして、その家族のひとりを思う気持ちの延長線上に、たとえば同僚(同じ警官として仕事をしている仲間)が「ひとり」として立ち上がってくる。だれにとっても、常に犠牲者は「1人」である。けっして「3000人」ではない。これは、逆の言い方をすれば、ひとりのことを真剣に心配し、苦悩する家族が3000以上あったということである。悲しみは3000人なのではない。その何倍もあったのである。
 「家族」に焦点をあてることで、悲しみをより自分に引きつけ、そして深める。そうしたことを狙った映画であることはとてもよくわかる。よくわかるがゆえに、私は同時に、何か不快なものを感じる。不快なものを覚えずにはいられない。こんなに簡単に図式化してしまっていいのだろうか。 9・11を犠牲者を悲しむ家族、そして犠牲者は家族のことを思いながら亡くなっていったというような話に図式化してしまっていいのだろうか。
 何が原因で 9・11が起きたのか。そのことへの問いかけがすっぽり抜け落ちてしまって、テロリストは家族を悲しませる、家族の祈りがテロリストに打ち勝つ力だというのでは、何かが違っているといいたくなってしまう。
 何かが違う--その象徴的なシーン。瓦礫の下敷きになりながら警官はキリストの幻想を見る。また、ある海兵隊出身の牧師(?)は神(キリスト)の声を聞いて、事件現場へ生存者の救出に向かう。そのとき描かれるキリストの絶対的な正しさ。これはキリスト教徒にとっては必然的なことなのかもしれないが、こういう「神」の描き方をしている限り、テロリストたちの祈りは、絶対にアメリカには届かない。
 テロリストたちにはテロリストたちの「神」がいる。
 「ワールド・トレードセンター」はその「神」を視野の外に置き、キリスト教の神(イエス)のみが絶対であるという誤解を育てることにもなるのではないか。アメリカの「家族」、アメリカの「神」--それだかげ浮かび上がってくるような気持ちがして、妙に落ち着かない気分になってしまう。