北川朱実「昭和四十五年」 | 詩はどこにあるか

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 北川朱実「昭和四十五年」(「石の詩」64)。散文のように事実を積み重ねてゆき、突然、「詩」が噴出する。

日焼けした一枚の白黒写真
(昭和四十五年四月、上野公園
と裏書きがあるから
出稼ぎ先で花見をしたときのものだろう
ハチマキに地下足袋すがたの父は
男たちから少し離れた石に腰かけて
笑っている

何がおかしかったのか
何か笑えることでもあったのか

突風に
父の残り少ない頭髪は逆立ち
狂ったように空に舞いあがっている

黒ぶち丸眼鏡が
鼻の上で大きく傾いているのは
片方のつるが折れて
ゴムひもを耳に引っかけているからだ

目をあかくして
ゴムの長さをのばしたりちぢめたりするたびに
耳から夕焼け色の水があふれ

 「耳から夕焼け色の水があふれ」。とても美しい。写真が撮影された時間について北川は書いていないが、背後に、突然夕焼けが見えてくる。夕暮れ時の人間の寂しさが見えてくる。笑顔の裏側の寂しさが見えてくる。
 それはつるが折れた眼鏡をゴムひもで代用している寂しさである。そういう姿を家族で共有する寂しさである。人間と人間が非常に接近した寂しさである。何も語らなくてもいい。ただ肉体がそばにある。そのそばにある距離感の、ほんの少しの違いのなかに、そのときのすべての感情を読み取ってしまう「家族」の寂しさである。
 家族はほんとうは寂しくはない。しかし、ほんの少しの違いで寂しさを実感させるものである。そのことが、この詩では、父の「男たちから少し離れた」石に腰掛けている姿、おそらく家族以外には気がつかないだろう「つるの折れた眼鏡」をかけていたときの父のほんの小さな表情のズレから丁寧にすくいあげられている。特に、つるの折れた眼鏡が引き起こす表情の微妙さは家族以外にはわからないだろう。それがさびしい。さびしいとは、自分はそれを知っている、それを共有しているという自覚といっしょに存在する。何も共有するものがないとき、寂しさは存在しない。寂しさは、私ではない誰かを呼び出す「声」なのだろう。

 「耳から夕焼け色の水があふれ」。この単独では特異なイメージが、寂しさの実感としてくっきり見える。そのせいだと思うが、この一行を読みたくて、私は何度も何度もこの詩を読み返した。
 この一行が好き--そういえる作品にであったとき、きょうは詩を読んだ、と実感できる。