監督 スティプン・スピルバーグ 出演 エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、キアラン・ハインズ、マチュー・カソヴィッツ、ハンス・ジシュラー
この映画のキイワードは料理である。料理が殺しと家族を結ぶ。殺し-料理-家庭がシンクロして映画に深みがでる。スピルバーグの狙いは、たぶん、これだ。
料理と殺人は非常に類似点が多い。ともに決めては素材と手際である。吟味した素材をそろえ、手際よく処理する。そうすれば料理も殺人も完璧である。報復テロを実行する主人公を料理がうまい男に設定した意味はそこにある。
主人公が助言をあおぐ「パパ」もまた料理が得意である。素材(野菜)から自分で育てている。彼もまた料理と殺人が同じ手際でおこなわれることを熟知している。「パパ」は料理を家族(ファミリー、というやくざ用語の方がいいかもしれない)に振る舞うのが好きである。料理は人と人を結びつける。人が愛し、愛されていることを確かめる絆である。その大切な絆を破壊しようとするものへの報復、それが殺人である。報復テロである。ファミリーを守る、ファミリーの団結を確認するものとして料理と殺人がある。
実際には、殺しの集団には不完全な素材(人材)が紛れ込んだ。そのために彼らの行動は完璧なものにはならない。ところどころで、ほころぶ。ときどきおこなわれる完璧な殺人(女テロリストを殺すシーンの見事さ)もあるが、たいがいは不完全である。そこに人間の味が出る。それがこの映画の一種の救いになっている。
不完全な素材のために「ファミリー」は徐々に崩壊する。ひとり、ふたりとファミリーが殺され、脱落していく。そのたびに団結を確認する料理が盛大につくられるが、むなしい飾りにすぎない。そのむなしさの実感が、家族をさらに意識させる。報復テロがさらに報復テロを招き、このままでは「家族」の未来はない。主人公は殺しとは無関係の、妻がいて子供がいていっしょに料理を食べて楽しい時間を過ごすほんとうの家庭へと帰りたくなる。最後には殺しを命じる上司を家に誘いもする。「私の家で料理を食べないか」と。ここにスピルバーグの切実な願いが込められている。料理をとおして伝統を知る、文化を知る。そして絆を深める。そうした生き方への切実な願いを感じる。
暗く沈んだヨーロッパの色、出演者の凝縮した演技によって、主人公の心境の変化、家庭愛への祈りのようなものは、とてもよく伝わってくる。いわば完璧な映画である。スピルバーグの作品としては『プライベート・ライアン』依頼の傑作である。
しかし。
おもしろくない。ぜんぜんおもしろくない。
私が要約したように、きちんと説明できる映画など映画ではない。映画は、もっと、映像自体でストーリーを破壊していくようでないと楽しくない。
スピルバーグの作品のなかで私がもっとも好きなのは『未知との遭遇』だが、なぜ好きかというとクライマックスで宇宙船のでんぐり返りがあるからだ。宇宙船が山を越えて姿をあらわす。そのとき宇宙船の天地がひっくり返る。度肝を抜かれる。宇宙船のでんぐりがえりにあわせて、座席ごと自分がでんぐり返った感じだ。こんなシーンは映画のストーリーには関係ない。宇宙船が山越えのときでんぐり返る必要など何もない。しかしスピルバーグは宇宙船のでん繰り返りを撮りたかったのだろう。その欲望がうれしい。楽しい。ただただ笑いたい。
『ミュンヘン』にはそうした我を忘れてしまう映像がなかった。テーマが違うといえばそれまでだが、私は、強烈な映像がない映画、思わず自分でまねしたくなるシーンのない映画は好きではない。また、殺し、料理には共通点がある、殺しをとおしてしだいに料理にふさわしい家庭に目覚めるというような、ことばにしてしまえる「思想」に私は共感を覚えない。「思想」はことばにならない。宇宙船のでんぐり返りのように、それがどうした、としかいえないもののなかにこそスピルバーグの「思想」と「詩」があると思う。そう信じている。
(先日、『ミュンヘン』はどういう映画かと同僚に問われた。上に書いたように答えた。『ダビンチ・コード』がくだらなかったせいか、『ミュンヘン』がとてもいい映画だったとあらためて思いなおした。ただし、非常によくできた映画だけれど、私は好きになれない。「詩」を感じない。)