私の血液を吸った蚊は新聞配達の青年の血液も吸い宅配便の中年男の血液も吸い
隣の池上さんの血液も吸い
我が家の門前で小便を毎日垂らす茶色の小型犬の血液を吸い
放尿を漫然と待っているどこか近所に住まう中年女性の血液も吸い
家族より愛してやまない私の自動車のボンネットに脱糞する野良猫の血液も吸っているはずだいやいや吸わずにいられないはず
「血液を吸い」(吸う)ということばの繰り返しが世界を広げていく。ただ、白鳥の試みは私の感覚では「詩」になりきれていない。リズムが重たい。スピード感に欠ける。軽みが足りない。たぶん「脚韻」形式の繰り返しがことばを重くさせるのだと思う。日本語の詩歌は(その伝統は)たいてい脚韻ではなく頭韻をそろえる。
もっと広い湖
もっとお得の湖が必要だ
無数の水面のダンス
無数の水面のキス
無数の血液の交じり合い
これは先に引用した行のあとに登場することばだが、こちらの方が素早い動きがある。行の短さというより「頭韻」と「脚韻」の違いだろう。「もっと」の繰り返し、「複数の水面の」の繰り返しのなかには、水が動くときの色の動きのようなものがある。これを大切にしてもらいたかったと思う。
この脚韻と頭韻の処理と同じように、白鳥の作品には複数の要素がまじっている。そのため「生きている水はかゆいな」という最後の行のゆかいなことばが立ち上がりきれていない。それが残念だ。