(あなたの)、文字の瞳が、うれしい、……と書いて、息を継げなくなったまま、何年が経ったでしょうか。あなたが、括弧になって括られた、その括弧のところに通う風、ふりそそぐ光、……その括弧のなかに(わたし)も入って、池の白い椅子のまわりを何度も何度も回っていた気がするのです。
「あなた」について思いめぐらすとき、その「あなた」のなかには「わたし」が含まれる。これは当然のことのようだが当然ではないかもしれない。人はしばしば「わたし」を忘れてしまって「あなた」についてだけ思いめぐらすものである。暴力的に「あなた」を決めつけてしまうことがある。「あなた」を「わたし」のなかの「あなた」の枠に閉じ込めてしまうこともある。
吉田は、ここではそういことをしない。「あなた」のことばに触れて、なにかを感じる。そのとき、「あなた」のなかに「わたし」も含まれていると感じる。「あなた」のなかに含まれている「わたし」が「あなた」のことばをとおして姿をあらわす、「あなた」と一緒に「あなた」の行為をくりかえす、と感じている。
引用をつづける。
ここから、遠くまで行って、帰ってきて、別の場所へ行って、また行方不明になって、また別の場所から帰ってきたような気がするのです。別の町で、別の場所で、もうあなたではない別の名前を呼んで、そこで呼ばれていたような気がするのです。あれから、五年、いや六年、なにもわからなくなって、なにもわからなくなって、わたしも、セキレイに魂はありますか、と川にむかって呟いていたような気がするのです。
「わたしも、セキレイに魂はありますか、と川にむかって呟いていたような気がするのです。」の「わたしも」が重要である。「あなた」と「わたし」は、このとき一体である。ひとを好きになる(ひとに感動する)とは、確かにそういう体験である。「あなた」がなにかをつぶやく。そのつぶやきが「わたし」のなかから同じことばを引き出す。引き出されたことばは「あなた」のものであると同時に「わたし」のものである。引き出されたことばによって「わたし」が新しく生まれる。
その誕生をなつかしく思い出し、誕生を手助けしてくれた「あなた」に感謝、お礼のことばを述べた、静かで落ち着いた詩である。
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この詩に先立つ「立ち去ったものの息にふれて」も同じく福井桂子にささげられたものとして読むことができるだろう。その最後の2行。
わからないことばを綴る、口の形に--
立ち去ったものの息にふれて、わたしはここまできたのだ
「ふれる」のは本当はことばではない。ことばとともにある「息」である。ことばは頭のなかをめぐる。しかし「息」は体のなか、肉のなかをめぐる。血のなかをめぐる。それは肉体のなかに溶け込み、肉体と切り離すことはできない。
「ことば」のように他人に、「これが、その息」というふうに指し示すことはできない。
だからこそ、吉田は
(あなたの)、文字の瞳が、うれしい、……と書いて、息を継げなくなったまま、何年が経ったでしょうか。
と書くしかない。「あなた」の「息」を、これからは吉田が「わたし」の「息」として、自分自身で呼吸しなければならない。「引き継ぐ」のではなく、新しくはじめなければならない。
「息を継げなくなった」ことを自覚し、そこから「息」をはじめる。ここから吉田の今度の「詩」がはじまる。