ブレイクを読む | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 ブレイクのことばは、あたりまえだが町田康のことばとは違う。違うけれども、やはり私は魅了される。

 ブレイク全著作集(名古屋大学出版会)のなかの「次に彼女は青白い欲望を生んだ」の次の行。

如何に美しくとも私の顔に霊感を与えるのは妬みなのだ、

 「妬み」ということばには不思議な肉体感覚がある。私たちは、それを肉体をとおして知っている。そのために、そのことばがこころに響く。
 しかし、このことばの運動は、ちょっと複雑である。なにかしら肉体の中にある矛盾をくぐりぬけてきている。たとえていえば善と悪が拮抗している、美と醜が拮抗している。
 その激しい対立運動としての「詩」である。



知識のくらい獄舎の中で汚されるまではかつて光より美しかった理性だ。

 「知識」と「理性」は普通は対立しない。しかしブレイクは対立するものとして描き出す。
 こうしたことばを読むと、ブレイクはひとつひとつのことばを他者として見ていた、という感じがする。
 ことばを、私は、自分と一体のものと感じている。
 ところがブレイクはそんなふうに感じていないのではないか。
 ことばは自分とは違うところにある。たとえブレイクがことばを書いても、それはブレイク自身の支配を超えている。
 他人(他者)についていえば、どんなに理解しているつもりでも「私」にはわからないものがある。他者の「肉体」が隠している何かがある。ふいに出現してきて「私」の想像を裏切るものがある。
 ブレイクは、ことばをそんなふうに見ていないか。
 「知識の……」という行は、そんなことを考えさせる。