橋場仁奈「ボール」 | 詩はどこにあるか

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 橋場仁奈「ボール」(「まどえふ」第6号)を読む。
 草むらに転がっているボールについて書いた作品。2連目がおもしろい。

黒と黄色の
小さい、まるい、縞々の、
ひろうと掌のなかで
ふむふむと蠢く(息、息をする、
草むらの、草むらで(ふむふむ、
ゆうこ、と書かれている(黒いマジックで、
ゆうこ、とゆうこが書いたのかゆうこの母が
ゆうこ、と書いたのかいえいえ母はそんなことをするはずもなく
ゆうこはゆうこ、とじぶんでじぶんに書いて
転がっている
草むら、の

 リズム、文章の息の長さの伸び縮みが楽しい。2連目以降の、ボールを探す少女とボールの想いのやりとりもリズムと息の伸び縮みにひかれて、ぐいぐい読まされる。とても気持ちがいい。
 最後の方の「ゆうこ、は」で始まる8行はとてもすばらしい。「ゆうこ、はきっと私だからどこまでも転がっていくよ」では、読者自身も「ゆうこ」(私)になってしまう。
 ところが、この詩はそこで終わらない。

そうして
かすかな希望をとどけたい
私たちの(さびしい、
影を映して

 余韻をもたせるために書いたのかもしれない。しかし、これでは余韻が死んでしまう。「ゆうこ、はきっと私だからどこまでも転がっていくよ」で終わっていたら、とてもいい作品になったと思う。

 詩は、書いたあと、前半と後半を叩ききった方が印象がくっきりすることかある。