杉原美那子「雪」 | 詩はどこにあるか

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 杉原美那子「雪」(「笛」235号)を読む。書き出しがたいへん魅力的だ。

凍みついた雪の朝 指を切った

夜の間中
白いタイルの上で飛び跳ねる熱帯魚を
見凝めつづけていた
シャッターチャンスを狙う つめたい目で

水が必要だと気がついた時
目が覚めた
薄氷が張ったように 胸が痛んだ

 現実と夢が交錯する。その交錯がとても自然でリアルだ。
 指を切った「今」、杉原が見つめているのは何だろうか。血の滴りだろうか。血の色に似た熱帯魚の苦痛だろうか。それとも熱帯魚のために水が必要だと気がついたことだろうか。あるいは、それが夢だと気付いたときの胸のひんやりした冷たさだろうか。
 おそらくその全部が融合している。
 指先からしたたる赤い血が夢の熱帯魚のように飛び跳ねている。それをまるでシャッターチャンスを狙うかのように見つめている。なぜ? 気がついたとき、胸がしんしんと冷える。

 この作品には、まだまだつづきがあるのだが引用しない。詩はここで終わっている。あとの部分は、美しい現実と夢の融合、肉体の苦悩と愉悦の融合を、なんとか説明しようとして、あじけない散文になっている。
 「薄氷が張ったように 胸が痛んだ」という痛みが、散文の説明によって台無しになっている。
 なぜ杉原が熱帯魚がタイルの上で飛び跳ねる夢を見たのか、熱帯魚は何を象徴し、タイルは何を意味するのか、というようなことは書かなくていいことだ。すでに血(死)、雪は書かれている。それで十分だ。もし書くとするなら、それは1行ですませるべきである。

 「詩」は往々にして、付加された散文によって消えてしまう。