米田憲三歌集『ロシナンテの耳』再読(4) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 米田の歌のドラマ性は、対象がドラマを内包するとき当然のことながら強くなる。「修那羅峠」を詠んだ「風化のとき」など。

刺客となり森さまよいてきしけもの泪目脂に凝らせて眠れる
飼い馴らすこと捨つること叶わずに棲まわす執心妬心の類も

 あるいはバタフライナイフで事件を起こした少年を詠んだ「梅雨明けず」。

鬱屈の思いあるいは持て余す少年か土手の草が隠しぬ
はじめての蛍よと指す葉の陰に炎ゆるとはいえぬさむきひとつ火

 そしてこれらの歌には「目脂」「執心妬心」「鬱屈」「隠しぬ」「陰」「さむき」「ひとつ」というような、それ自体で肉体に隠された精神(こころ)というもの、暗いものを暗示させることばが並ぶ。
 米田にとって、ドラマはどこかで暗い要素を内包したものかもしれない。

 ユーモラスな歌もたしかにある。

旅のこころ遊ばせ飾窓覗きゆく雨のベルケンひとつ傘にて

 これはしかし非常に少ない。

 のびやかだなあ、と感じさせる歌には不思議なことに少年少女が登場することが多い。その「少年」が他人ではなく、米田自身であっても。

われを抜けて野の草原に紛れたる少年のわれ 萌ゆる飛鳥野
男ことばも優しきひびき自転車の少女ら通学路の雨弾きゆく

 米田自身の職業が反映しているのかもしれない。