詩はどこにあるか(97) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)
 
 通い合う感性。たとえば吉田文憲「幽火」と中村稔「冬の到来する日に」。

それ以来、なんにちもなんにちも雨の日が続きました。雨がわたしを罰しているのでしょうか。いっときの夕暮れに、井戸のそばに白くひかるものが立っていました。あれはなにかの花だったかもしれません。  (吉田)
*
----あ、ツワブキが一輪、凛としてその黄の花を立てている。  (中村)

 花が立っている(立てている)。この通い合う感覚に、私は立ち止まる。私は「花が立っている」とは書かない。花が咲いている、と書く。しかし「立っている」が理解できないわけではない。むしろ、そのことばに託されたものが、それこそすっくと立ち上がってくるように感じ、はっとし、立ち止まるのだ。
 そして、そこに「日本語の歴史」も感じてしまう。

いまの私が存在することはない。
いま、と私が感じたその瞬間、
いまはもう過去になっている。私とは
茫々たる過去の堆積からなる幻にすぎない。  (中村)

 こうした哲学は、ある詩人に共通のものだと思う。
 意識のなかから屹立するものがある。それを「立っている」と表現する日本語の歴史がある。
 「現代詩」もまた「歴史」を生きている、と思う。