通い合う感性。たとえば吉田文憲「幽火」と中村稔「冬の到来する日に」。
それ以来、なんにちもなんにちも雨の日が続きました。雨がわたしを罰しているのでしょうか。いっときの夕暮れに、井戸のそばに白くひかるものが立っていました。あれはなにかの花だったかもしれません。 (吉田)
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----あ、ツワブキが一輪、凛としてその黄の花を立てている。 (中村)
花が立っている(立てている)。この通い合う感覚に、私は立ち止まる。私は「花が立っている」とは書かない。花が咲いている、と書く。しかし「立っている」が理解できないわけではない。むしろ、そのことばに託されたものが、それこそすっくと立ち上がってくるように感じ、はっとし、立ち止まるのだ。
そして、そこに「日本語の歴史」も感じてしまう。
いまの私が存在することはない。
いま、と私が感じたその瞬間、
いまはもう過去になっている。私とは
茫々たる過去の堆積からなる幻にすぎない。 (中村)
こうした哲学は、ある詩人に共通のものだと思う。
意識のなかから屹立するものがある。それを「立っている」と表現する日本語の歴史がある。
「現代詩」もまた「歴史」を生きている、と思う。