詩はどこにあるか(78) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

「14」。否定としての「無」。

やがて生まれる息子は
ぼくではない  (34ページ)

 この「ない」は不思議だ。否定する主体としての「ぼく」はどこにいるのか。男の「理想」(夢)のなかだろうか。
 その、形にならない混沌のなかに「無」のすべてがある、と言ってしまうのは簡単なことである。いままで私が書いてきたことにつづけるなら、当然、そうなる。しかし、ここではそういう「定義」をしたくない。
 この「ない」のなかには、なにかとてつもなく潔いものがある。それが何か私にはもあだわからない。だからいまはそれについては具体的には書かないことにする。こころと頭のなかにとどめておく。抱いておく。

 実は私はこういう時間が一番好きである。
 何か私にはわからない美しいものがある。それがわかるまで、それをただ抱きしめているという時間が。永久にわからないかもしれない。忘れてしまうかもしれない。運がよければ、ある瞬間、別なかたち、別なことばで、高橋の書いた「ない」とは違うものに出会い、そこで考えたこと、感じたことが、偶然、高橋の「ない」と重なる。しかし、重なったことに気がつかずにおわる。
 たぶん、そうしたことばの出会い方が美しいのかもしれない。


ぼくの名は永遠の不在  (35ページ)

 この最終行の美しさには涙が流れる。
 見てはいけないものを見てしまったときのように震えてしまう。