読売新聞を読む(1) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

読売新聞を読む(1)

 2023年01月03日の読売新聞。「世界秩序の行方」という連載がはじまった。第一回は「バイオ」をめぐる問題をテーマにしている。中国がゲノムデータを世界中から蓄積していると書いた上で、こう作文をつづける。
↓↓↓
 元米陸軍大佐で国防長官室部長を務めたジョン・ミルズ氏は、BGI(中国の遺伝子解析会社「華大基因」)などが集めたゲノムデータを中国軍と共有している可能性に触れ、「中国は特定の民族に限定した攻撃的なウイルスを作り出すことができるかもしれない。これは致命的な脅威だ」と指摘する。
↑↑↑
 私は読んだ瞬間に、では、アメリカの会社(あるいは大学でもいいが)は、「集めたゲノムデータをアメリカ軍と共有している可能性」はないのか。「アメリカは特定の民族に限定した攻撃的なウイルスを作り出す」可能性はないのか、ということである。
 だいたい中国が攻撃しようとしている「特定の民族」とは何を指しているのか。新疆ウィグルやチベットか。そこに住むひとは「民族」としては「中国民族」ではないかもしれないが、同じ中国の国民である。そういうひとを対象にウィルスで攻撃するとは思えない。中国で、いまアメリカが重視しているのは「台湾」だが、台湾の人たちは何民族というか知らないが、中国系のひとたちである。彼らを照準とした「攻撃ウィルス」はまず考えられない。
 そうなると、「台湾有事」とともに話題になる「日本民族」だろうか。たぶん、そういう「印象」を与えるのが、この記事の狙いだろう。中国は危険だ。日本を狙ってウィルス攻撃をしてくるおそれがあるという印象操作をしたいのだろう。それをアメリカの軍関係者に語らせたいのだろう。
 だいたい考えてみるといい。「特定の民族」が対象なら、アメリカは攻撃対象にならない。アメリカは「多民族国家」なのだから、ある民族を攻撃しても、他の民族(国民)が反撃してくる。アメリカを対象に「特定の民族を攻撃するウィルス」の開発は不可能だ。
 しかし、そういう「開発」が中国で可能なら、アメリカでも可能だろう。アメリカなら中国(民族)を対象に「ウィルス攻撃」ができる。それは中国がアメリカに攻撃するときよりも、はるかに「効率」が上がるからだ。
 先の文章は、こうつづいている。
↓↓↓
 米政府はバイオ技術の育成を国家安全保障政策の一環として推進している。バイデン大統領は同9月、バイオ分野への投資を拡大する大統領令に署名し、「バイオ分野で米国は世界をリードし、世界のどこにも頼る必要がなくなる」と訴えた。
↑↑↑
 明確に、バイオ技術が「国家安全保障政策の一環」であると書いてある。それを「推進している」と書いてる。そのためにバイデンは大統領令に「署名」している。アメリカがバイオ技術を国家安全保障に利用するのなら、中国が利用するなとどうして言えるのか。アメリカにそういう動きがあるからこそ、「中国はこういう狙いを持っている」と発想できるのだろう。
 「バイオ技術」を「核技術」に置き換えれば、すぐにわかる。アメリカは「核技術(核爆弾)を国家安全保障政策」として利用している。それは中国もそうだし、ロシアもそうである。北朝鮮も同じだ。「中国、北朝鮮が核攻撃をしてくるおそれがあるから、アメリカは国家安全保障政策として核ミサイルを保有し続ける。アメリカにはその政策が許されて、他の国がその政策をとってはいけないという論理は、アメリカ中心主義であり、公平ではない。
 もし「アメリカが中国民族に限定した攻撃的なウイルスを作り出すことができるかもしれない」と中国の軍関係者が発言したとしたら、それはどんな反応を引き起こすだろうか。たいへんな問題になるだろう。しかし、アメリカの軍関係者が「中国は特定の民族に限定した攻撃的なウイルスを作り出すことができるかもしれない」と発言していることは問題にされない。そればかりか、アメリカの政策が「正しい」というための根拠に使われている。読売新聞は、そういう論理を平然と展開している。
 読売新聞は、今回の連載の狙いをこう要約している。
↓↓↓
 米中対立やロシアによるウクライナ侵略で、ポスト冷戦構造は崩壊した。米国が主導してきた国際秩序はどうなるのか。日本の戦略はどうあるべきか。
↑↑↑
 「米国が主導してきた国際秩序」が絶対的に正しいという前提である。「米国が主導してきた国際秩序」に対する疑問が完全に欠落している。それが、たとえば「中国は特定の民族に限定した攻撃的なウイルスを作り出すことができるかもしれない。これは致命的な脅威だ」という米軍関係者の発言を、批判もなく引用する姿勢にあらわれている。
 ことばは、慎重に読まないといけない。新聞には、報道記事の他に「作文」記事がある。「作文」には、意図が隠されている。報道にも意図があるが、「作文」の意図は、報道以上に危険である。情報が「作文に書かれた情報」に限定されるからである。