中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(1) | 詩はどこにあるか

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 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』は1985年11月25日にみすず書房から発行されている。少しずつ読み返していく。
 最初に読むのは、カヴァフィス。中井には『カヴァフィス全詩集』がある。(私が持っているのは、第二版で1991年4月25日発行。中井は推敲を重ねるひとなので、比較すると異動があるのだが、それについては触れない。

 「壁」。

壁を作られた時に気づかなんだ私の迂闊さ。

 この一行に、中井の訳のおもしろさが凝縮している。「気づかなんだ」という素早い口語。「気がつかなかった」と比較するとわかるが、このスピードは、気づいたときの「瞬間」としか言いようのない時間を端的にあらわしている。「気づかなんだ」の前では、「瞬間」と呼んでさえ、まだ、まだるっこしいような感じがする。その口語と拮抗するかのような「迂闊さ」ということば。「迂闊」も、たしかに、口語でもつかうのだが、漢字で読むと何か「文語」に見える。中井は、この「口語」と「文語」をぶつけあう「文体」をカヴァフィスを訳すときにつかっている。それが、とても効果的に思える。
 「壁」の主人公(私)は、歴史上の人物だろう。(中井は註釈をたくさん書いているが、私は、それをあえて読まない。中井の訳出したことばの印象から人物を想像する。)それは「庶民」ではない。だから「私」という、そういう人物にふさわしい一人称をつかう。その「私」が、多くの市民と同じ「口語」をつかう。そのとき、歴史上の人物、遠い存在が、庶民の「私(読者)」と重なる。
 そこには二重のドラマがある。
 偉人が高い壁に閉じ込められる。それが一つ目のドラマ悲劇。彼が「気がつかなかった」ではなく「気づかなんだ」と叫ぶとき、その「声」は偉人と市民を結びつけてしまう。市民が偉人になって、彼の悲劇を体験する。それが二つ目のドラマである。
 この劇を、中井久夫は、瞬間的に実現する。